| 乾隆帝 愛新覚羅弘暦 | ||
|---|---|---|
| 清 | ||
| 6代皇帝 | ||
| 王朝 | 清 | |
| 在位期間 | 1735年 - 1795年 | |
| 姓・諱 | 愛新覚羅弘暦(こうれき) | |
| 諡号 | 法天隆運至誠先覚体元立極敷文奮武欽明孝慈神聖純皇帝 | |
| 廟号 | 高宗 | |
| 生年 | 1711年9月25日 (康熙50年8月13日) |
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| 没年 | 1799年2月7日 (嘉慶4年1月3日) |
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| 父 | 雍正帝 | |
| 母 | 孝聖憲皇后(崇慶皇太后) | |
| 陵墓 | 裕陵 | |
| 年号 | 乾隆 : 1736年 - 1795年 | |
乾隆帝(けんりゅうてい、康熙50年8月13日(1711年9月25日) - 嘉慶4年1月3日(1799年2月7日))は、清の第6代皇帝(在位1735年 - 1795年)。諱は弘暦(こうれき)、廟号は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。
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雍正帝の第4子として生まれる。祖父康熙帝に幼い頃から賢明を愛され、生まれついての皇帝として即位した。生まれついての皇帝であったため、乾隆帝は祖父、父とは違い派手好みの性格であった。
乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが「十全武功」(じゅうぜんぶこう)と呼ばれる10回の外征である。ジュンガル、金川、グルカに2回ずつ、回部、台湾、ビルマ、安南に1回ずつ計10回の遠征を十全武功と言って誇り、自分を十全老人と呼んだ。これにより清の版図は最大規模に広がったが、ベトナム遠征やビルマ遠征など負け戦・勝てなかった戦を含んでおり、最終的に相手国の朝貢が実現したという結果にのみ着目した主張である。
国内政治においては、雍正帝の時代に置かれた軍機処が、恒常的な政務機関となっていった。康熙・雍正期の繁栄にも支えられて国庫が充実していたため、民衆にはたびたび減税を行った。また、古今の優れた書物を書き写し保存するという文化的大事業である『四庫全書』の編纂や、上記の10回の外征も、こうした豊かな経済力を前提としていた。この時期には文化が大いに振興し、宮廷はきらびやかに飾られ、乾隆帝自身も数多くの漢詩を作った。乾隆帝はまた中国の伝統的な文物をこよなく愛し、現在も故宮博物院に残る多くのコレクションを収集し[1]、たびたび江南へ行幸した(六巡南下)。これらの軍事的・文化的な成功により三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。
その一方で退廃の芽生えがあった。十全武功も乾隆帝は「全て勝った」と言っているが、西域では酷い苦戦もあり、越南など実質的には負けの遠征もあった。また、苗族の反乱や白蓮教徒の反乱などが起こった。さらにこの時期に中国におけるイエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入ったことでのちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。イギリスの使節としてマカートニーが入朝したのは乾隆帝の時代であるが、三跪九叩頭の礼は免除したものの貿易摩擦に関するイギリスの要求は退けている。
また、文字の獄と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、禁書も厳しく実施した。父雍正帝の時代に命を許された曾静も「父は自分を批判されたものだから許したが、自分にとっては父を批判した者だから許せない」という口実で処刑している。
1795年、治世60年に達した乾隆帝は祖父康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で引退し太上皇となり、実権を手放さず清寧宮で院政を敷いた。乾隆帝は和珅(珅は王申)という奸臣を、引き続いて重用していた。和珅は嘉慶帝と他の臣たち全てに憎まれていたのだが乾隆帝が生きている間はどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した。晩年の乾隆帝は王朝に老害を撒き散らした。和珅は乾隆帝の死後ただちに死を賜っているが、没収された私財は国家歳入の十数年分に達したという。[2]
1799年、死亡する。陵墓は清東陵内の裕陵。なお、民国期の1928年に国民党の軍閥孫殿英によって東陵が略奪される事件が起き(東陵事件)、乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。これは溥儀にとっては1924年に紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的なできごとであり、彼の対日接近への布石にもなった。
他
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