陸羯南


陸羯南

陸 羯南(くが かつなん、1857年11月30日安政4年10月14日) - 1907年明治40年)9月2日)は、日本明治期の国民主義(民族主義)的ジャーナリスト。本名、実(みのる)。弘前藩藩医・中田謙斎の長男(次男説もある)。妻てつとの間に1男7女。漢学者の鈴木虎雄は娘婿である。

目次

生涯

安政四年十月十四日に弘前城下で生まれる。父は中田謙斎。中田謙斎は弘前藩近侍茶道役で、禄高は三十石ほどであった。十五歳ごろより工藤他山の漢学塾に通うようになり、その後郷里の東奥義塾を経て、宮城師範学校に入学するが、薩摩出身の校長の横暴に抗議、退校処分となる。東奥義塾では漢学、英学両方の教えを受けた。次いで、上京して司法省法学校に入学。ここでも賄征伐事件に関連して、校長の態度に反発し退学。このとき共に退学した同窓生に、原敬福本日南加藤拓川、国分青厓がいる。この頃親戚の陸家を再興し、陸姓となる(徴兵逃れの措置と言う説と、唐の詩人陸宣公に倣ったという説がある)。

青森新聞社などを経て北海道に渡ったのち再度上京し、フランス語が堪能だったことから太政官文書局書記局員となる。ここで井上毅、高橋健三らと知り合う。1885年(明治18年)には内閣官報局編集課課長となっている。またこの時フランスの保守主義者ジョゼフ・ド・メーストルの『主権についての研究』を翻訳、『主権原論』として出版。しかし1887年(明治20年)、政府の条約改正欧化政策に反対して退官。何がなんでも西欧列強に肩を並べたいという政府の方針に対し、日本の伝統に基づいた穏やかな近代化を提唱した。

陸は徳富蘇峰と共に、明治中期を代表する新聞記者であるが、徳富の発言がほとんど社会の全現象にわたったのに反して、陸の言論は政論中心であった。ただ政論中心と言っても、政府や政党の動向を具体的に追跡するだけではなくて、国民全体の歴史や社会・経済・思想・風俗・慣習との関連のもとに政治の動向を捉える点に特徴があり、そうした見方は国際政治の捉え方にまで貫かれていた。彼が政論記者として他の追随を許さないと評価されたゆえんである(国史大辞典)。

新聞「日本」

後に新聞の発行を決意し、1888年(明治21年)4月に「東京電報」という日刊新聞を創刊(東京電報は「商業電報」という新聞の改名)、翌年「日本」と改題、社長兼主筆として活躍した。羯南は、著書『近時政論考』の中で自身を国民主義という立場に規定し、新聞では社説を担当して国民精神の昂揚につとめた。彼の主張は、その新聞名から「日本主義」とも呼ばれる。官僚主義藩閥政治の専制を攻撃する彼の社説・評論は論旨明快、多くの読者の支持を得た。

しかし一方で官僚の小村寿太郎や長州の品川弥二郎三浦梧楼とは深い親交があった。閔妃殺害事件が起こったときも、親交のある三浦梧楼をかばってか、日本人に同情的な論調を掲載した。 また、藩閥の専制を攻撃したが、同時に政党に対しても厳しい批判の目を向けていた。 「日本」には、いわゆる三面記事はなく、振り仮名抜きの漢文体という硬派の新聞であった。三宅雪嶺杉浦重剛長谷川如是閑正岡子規など明治後期を代表する多くの思想家、言論人がこの新聞に集まり、近代ジャーナリズムのさきがけとなった。政府の不正・腐敗を糾弾する激しい論調は、しばしば発行停止処分を招き、その合計、230日にも達したほどだった。

このような反骨の政治新聞にも、狭いスペースながら文芸欄があった(また、発行停止処分の間収入を得るために「小日本」という小新聞を出していた。そこの責任者が後の自由党重鎮古島一雄であり正岡子規を世に送り出した)。そしてここを拠りどころにして、明治の俳句・短歌の改革を成し遂げたのが、正岡子規である。晩年には激痛を伴う結核性カリエスを患った子規に対し、羯南は終生父のごとく接し、俳句・短歌論を励まし、病身を慰た。

特に明治三十年代に社会問題への関心を強め、三宅雪嶺らとともに田中正造の足尾銅山鉱毒事件の解決にも尽力している。また社会問題研究会の評議員も務めた。

硬骨な新聞であったことと、羯南の商売嫌いにより、「日本」は経営が苦しくなり、1906年(明治38年)羯南は病気を期に「日本」を引退。経営権を他者に譲り渡す。しかし元からの社員は新社長に反発。羯南もその利益主義に反対したことから、元からの社員は全員退社し、羯南の盟友三宅雪嶺の「日本人」に合流した。これにより「日本人」は「日本及日本人」と改題することになった。引退の翌年9月2日、鎌倉で没した。

「徴兵逃れ」について

陸羯南こと中田実が陸家を再興し陸姓となったことについては「徴兵逃れ」という説と漢詩人に倣ったという説がある。柳田泉が「三代言論人集」のなかで陸について書くなかで陸が「徴兵逃れのために」親戚の絶家である陸家を再興した、ということが掲載された。これより主に大都市圏の歴史学者には「徴兵逃れのために」陸家を起こしたという説が定着していくことになった。たとえば『国史大辞典』で「陸羯南」の項目を執筆し、『陸羯南全集』の編集委員でもある植手道有は「徴兵逃れの措置とみて間違いない」(国史大辞典)と断定している。ただし陸羯南の故郷青森の郷土史家はこの見方をとらない傾向にあり、稲葉克夫は徴兵逃れの措置ではないと主張している。その理由として陸は長男である(註)ことや東奥義塾を出ている(稲葉によれば当時洋学を学んだ者は徴兵を免れたそうだ)ことで陸はすでに徴兵にとられる身分でなかったこと、そして鈴木虎雄の絶家復興というのは羯南のフィクションである、という談話も紹介している。なお、徴兵逃れの措置であったとしても、当時士族は農民とともに兵隊にとられることを嫌っていて、旧武士層の末端にいた陸羯南も当時の通念どおりに農民とともに兵隊にとられることを嫌っていたということでしかなく、決して不名誉なものではない。

(註)陸を長男とみなしてよいかは複雑である。父中田謙斎は養子であり、謙斎の養父は謙斎を養子に取った後男子が生まれている。そこで生まれた男子を謙斎の養子として後をとらせることになっていたという。したがって謙斎にとっての長男は羯南なのだが、中田家にとっての長男は羯南ではない、という複雑な家庭環境に置かれることになった。なので本によって羯南を「長男」と記載しているものと「次男」と記載しているものがある。なお稲葉克夫はこのような複雑な家庭環境も陸羯南に中田家を出る決意を固めさせたのではないか、と推測している。

独立新聞

東京電報は経済欄が充実していた経済新聞であった。「日本」になっても、その欄は縮小されたが基本的に維持された。

新聞『日本』は谷干城品川弥二郎近衛篤麿と言った羯南と似たような意見を持つ政治家の寄付金によって成り立っていた部分が大きい。これは羯南が部数を取るための新聞作りを断固拒否したためである。羯南は新聞を「機関新聞」(公共機関や政党などの機関紙)、「営業新聞」(部数を売って儲けで運営する新聞)に分け、機関新聞は機関の主張をそのまま載せるだけであり、営業新聞は流行に追従するだけである、として両者とは違った己の主張をのべる「独立新聞」の必要性を強調した。また、徳富蘇峰とも親交があった。蘇峰は羯南を「存外策士である」と評している。蘇峰はなぜ羯南を策士と評したのかは不明だが、蘇峰は『頑蘇夢物語』で「(第二次松方内閣について)最初に予に消息を語った者は、薩摩人長谷場純孝と、予が同業の日本新聞社社長並主筆の、陸実であった。陸は自ら見るところを予に語って、頗る悲観説を吐いていた。彼はむしろ、予が何も知らずに、この渦中に驀に飛び込む事を心配しているものの如くであった。それで予に向かって、相当の警戒を与うべく語ったものと、予は考えたが、陸には慥かにかく考うるだけの、友情を持っていた漢と思う。今にして考えてみれば、陸は予よりも余程賢明である」と述べているように、徳富は第二次松方内閣で内務省勅任参事官に就任したことで旧来の反政府の論陣との差から「変節」と罵られたのに対して、同じく声がかかっていた羯南は結局出仕しなかった。そのあたりのことが関係しているものと思われる。 「日本」は最後の大新聞であり、日清戦争期に日本の新聞界が小新聞化、中新聞化していく中で硬骨な論調を保った。しかしそれゆえか徐々に部数を減らしていて、それが経営権譲渡につながったともいえる。

  • 大新聞(おおしんぶん)…言論中心の硬骨な新聞。
  • 小新聞(こしんぶん)…絵や小説などが入った大衆的な新聞。
  • 中新聞(なかしんぶん)…大新聞と小新聞の中間。言論よりも報道を中心とした。

「日本」の発行部数は発刊当初が八千五百部、最盛期の日清戦争時が二万一千部とされている。読者層は保守系インテリ層であったと言われる。

国民主義

陸は三宅雪嶺や志賀重昂らの政教社同人とともに日本固有の文化や歴史を重んじる運動を展開した。陸は「内における国民の統一と外に対する国民の特立」を強調して、自己の立場を国民主義と規定した。この運動は条約改正運動に絡んだ欧化主義に対抗して現れたものである。だが陸の中では単なる時局的必要だけではなく日本社会が単純な欧化により「無秩序」、「支離滅裂」になることへの懸念があった。陸の国民主義は国民の歴史的連続性と有機的全体性が強調され、その表象として天皇の権威が前面に出てくることになった。陸の「国民主義」は国家機構としての「国家(政府)」ではなく国民全体の有機的国家を理想としていたがゆえに国民の日常的利害にも関心を持ち、これを擁護する論陣も張った。政府にとどまらず、政党もこうした国民の利害を掬いあげていないと批判することもあった(参考:国史大辞典「国民主義」他)。

主な著作

主な著作物に『近時政論考』『原政及国際論』などがあり、『羯南文録』『羯南文集』には、論文のほか詩歌の類も収録されている。みすず書房から「陸羯南全集」(全十巻)が刊行されている。

  • 『近時政論考』…大日本帝国憲法について書いた「近時憲法考」、当時の政治思想の動向を時代ごとに整理した「近時政論考」、自由主義についての陸羯南の見解を書いた「自由主義如何」の三部構成となっている。
  • 『原政及国際論』…国内政治について書いた「原政」と国際政治について書いた「国際論」の二部構成。後に「国際論」は単独でも出版された。「国際論」は国際政治の考え方を示した草分け的存在となっている。

いずれの著作も「日本」の社説をまとめたもの。

研究史

陸羯南に関する研究は現在かなり進んでいる。戦後では、丸山真男が昭和21年に「中央公論」で「陸羯南―人と思想―」を発表したのが注目される。丸山は陸を昭和期の日本主義者とは違う「進歩的で健康なナショナリズム」と評価した。丸山は「日本」の題字に描かれた日本の図が北海道から九州までのことから、「日本は今この時代から出直そうとしている」と述べている(ちなみに丸山真男の父丸山幹治は「日本」の社員であった)。丸山論文と全集の刊行は陸羯南研究をより盛んにした。その後現在に至るまでさまざまな研究が出ている。

近年の評伝としては、有山輝雄『陸羯南』(吉川弘文館、2007年)、朴羊信『陸羯南―政治認識と対外論―』(岩波書店、2008年)、松田宏一郎『陸羯南―自由に公論を代表す―』(ミネルヴァ書房、2008年)などがある。

関係史料の多くは弘前市郷土文学館に寄贈されている。蔵書は散逸したとみられ、日記や自伝等は確認されていない。陸は多くの新聞論説を残したが、私的な事についてほとんど書き残していない。従って現在でも私的な事についてはわかっていないことが多い。

関連項目

外部リンク







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