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| 情報 | ||||
| 旧名称 | 総理大臣官邸 | |||
| 用途 | ||||
| 旧用途 | ||||
| 設計者 | 下元連 | |||
| 構造設計者 | ||||
| 施工 | ||||
| 建築主 | ||||
| 事業主体 | ||||
| 管理運営 | ||||
| 構造形式 | 鉄筋コンクリート構造 | |||
| 敷地面積 | ||||
| 建築面積 | ||||
| 延床面積 | 7000平方メートル | |||
| 階数 | 地上3階、地下1階 | |||
| 高さ | ||||
| 着工 | ||||
| 竣工 | 1929年3月18日 | |||
| 開館開所 | ||||
| 改築 | 2003年10月-2005年4月 | |||
| 所在地 | 〒 東京都千代田区永田町2丁目3番1号 |
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| 位置 | {{{位置}}} | |||
| 電話 | ||||
| 文化財指定 | {{{文化財指定}}} | |||
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総理大臣公邸(そうりだいじんこうてい)は、内閣総理大臣が居住する施設である。総理公邸、首相公邸ともいう。
敷地内に隣接する内閣総理大臣の執務の拠点として総理大臣官邸がある。
目次 |
総理大臣公邸は国家公務員宿舎法の規定に基づいている。
新官邸の完成に伴い、旧官邸を移動・改装して、迎賓機能を持つ新しい総理公邸として使用することとなった。
2003年(平成15年)10月から約1ヵ月をかけて、総重量約2万トンの建物全体を、東に8度回転させながら南に約50m移動させる曳家を行い、その後1929年の完成当時の姿を丁寧に復元する改修が施された。また邸内には茶室や和室のダイニングなど外国からの賓客をもてなす部屋が新たに作られた(→ 画像)。また燃料電池による発電・熱供給システムや、太陽光発電、風力発電など環境に配慮した各種設備が導入された。
改修工事は2005年(平成17年)4月に終了、小泉純一郎政権発足4周年となった4月26日を記念して新公邸への引っ越しが行われた。
なお、日本では総理が公務を行う建物を「官邸」、居住する建物を「公邸」と分け、同じ隣接するこの二つを区別している。外国では官邸の建物自体が大統領や首相など政府最高首脳の居住施設を兼ねている場合が多く、居住施設が別個にある場合でも同じ敷地内にあれば両者を一つの名称で呼ぶことが一般的なのと対照的である。
画像 旧官邸と渡り廊下で連結していた平屋造り508平方メートルの旧公邸は、その外観こそは官邸に連なるライト風の建物だったが、内装には和式を取り入れていたことから、完成当時は「日本間」と呼ばれていた。内装が完了するとすぐに田中義一が入居し、以後六人の歴代総理がここに寝起きしていた。
その後五・一五事件や二・二六事件など大事件の舞台となり、犬養毅や松尾伝蔵など数人の死者も出している[1]。正面玄関には二・二六事件の際のものといわれる弾痕が残っていた。そうした背景からか、旧公邸では時折軍服姿の幽霊が出ては人を驚かせたという。森喜朗もその一人で、ある晩森が寝ていると、ザック、ザック、という軍靴の足音が近づいてきて、寝室の扉の前でぴたりと止まったという。慌てて飛び起きた森が「誰だ! そこにいるのはっ!」と寝室のドアを蹴り開けたが、そこには誰もいなかったため、すぐに秘書官に連絡を取ったが、公邸にそのような者たちが入ってくるはずもなく、森はそこではじめて背筋が寒くなったという[2]。その森を引き継いだ小泉純一郎に森がこの話をすると、小泉は声高に笑って「なに言ってるんですか。幽霊なんかいるわけないでしょ。俺はそんなのまったく信じないから怖いことなんかないよ」と、相手にもしない様子だったが[2]、あとで神主を呼んでしっかりお祓いをしたという[3]。羽田孜の綏子夫人も「霊が見えるという人がいて、お祓いをしていただいた。庭に軍服を着た人たちがたくさんいるというんです」という話を紹介している。
しかし、公邸は二・二六事件で反乱兵によって掻き乱され、住居としては使い物にならないほどにまで荒らされてしまった。そこでこれを復旧するのはあきらめて官邸の事務所に転用し、翌年には官邸南庭に木造二階建ての仮公邸を新築した。この家屋は外観が日本式そのものだったので「日本家」と呼ばれた。しかし「日本家」は会合や臨時の休息所として使われることはあっても、定住する者はない空き家だった。二・二六事件以後の歴代総理は、もう誰もこの物騒な敷地内に住もうとはしなかった。「日本家」は1945年、5月25日の大空襲で焼失した。
戦後になっても総理の自宅住まいは変わらなかった。歴代総理は毎日都内の私邸から官邸まで、黒塗りの公用車に乗ってパトカー先導で「通勤」していたのである。兵士に襲撃される心配はなくなったが、公邸が事務所と化してすでに久しく、その内部は荒れ放題になっていた。
一方、当時の大物政治家は御殿のような邸宅に居住している者も少なくなかった。そうした邸宅をもつ総理のなかには、逆に官邸の機能を私邸の方へ持ってきてしまう者もいた。すでに戦前には、近衞文麿が杉並区荻窪の私邸「荻外荘」を主要閣僚との会談などに活用し、大戦前夜の重要な国策の多くがここで決定されている。鳩山一郎は脳梗塞の後遺症から体が不自由だったこともあり、「音羽御殿」と呼ばれた文京区音羽の大邸宅には与党幹部や政府要人が自ら足を運ぶことが多く、保守合同や日ソ共同宣言の下準備もここで行われた。「目白御殿」と呼ばれた文京区目白台の田中角榮の私邸にも与党幹部や各省庁の局長クラスなどが引っ切りなしに出入りして、まるで官邸のような様相を呈していた。
幣原内閣で外相だった吉田茂は、傍系11宮家の皇籍離脱が決定すると、いち早く関係各方面に働きかけてアールデコの粋を尽くした芝白金台の旧朝香宮邸を外務大臣公邸とすることに決めてしまう。そうこうしているうちに吉田は総理となり、外相も引き続き兼務したので、外相公邸は事実上の総理公邸になった。与党議員が出入りして落ち着けない官邸を嫌った吉田は、愛してやまない[4]この瀟酒な邸宅で政務の大半をとったので、外相公邸は次第に第二の官邸のごとき様相を呈するにいたった。現在「官邸」と言うとそれが総理や官邸スタッフのことを意味することもあるように、戦後の一時期において「外相公邸」「目黒[5]」などと言えば、それは吉田やその側近たちのことを指した。
一方、旧公邸の方はその後も引き続き官邸事務所として使われていたが、60年安保でデモ隊が官邸を包囲して岸信介がカンヅメにされるという事態が起きると、官邸に隣接した居住施設の必要性が改めて浮き彫りにされた。そこで1963年から旧公邸に大規模な改修を施す工事が始まり、その完成を待って1968年には佐藤榮作が二・二六事件以来実に32年ぶりに公邸の主としてここに移り住んだ。7年8ヵ月という連続在任の最長不倒記録をうち立てた佐藤は、任期後半の4年間を公邸で暮らしている。後に佐藤寛子夫人は、田中角榮・福田赳夫・大平正芳などが大派閥の領袖でありながらいずれも短期政権に終わったことを評して、「総理が在任中を通じて公邸に住み続けることこそが長期政権の秘訣ですよ」と語っていた。
しかし佐藤以後の総理がみな公邸住まいをしたわけではなかった。旧公邸には大規模な改修が施されたとはいえ、やはりそもそもが住み心地の悪い住居だった。怪談に加えて、狭い、日当りが悪い、造りが古い、使い勝手が悪い[6]など、満足のゆくものがなく、そのうえ巨大なゴキブリ[7]やネズミが頻繁に出没するといった問題までかかえていた。危機管理上の懸念[8]と、官邸機能の強化[9]から、総理の公邸住まいが常態として定着するのは、平成に入ってからである(「歴代総理と官邸公邸」の節を参照)。
5年5ヵ月の長期政権を担った小泉純一郎は、新官邸の建設 → 旧公邸の取壊し → 旧官邸の移動 → 新公邸への改装という、一連の歴史的な官邸建替え事業の一部始終を自らの任期中に体験することになった。旧公邸の取壊しを控えて小泉は仮公邸となった品川区東五反田の内閣法制局長官公邸に引っ越したが、そこでこの官舎の豪勢なことに驚愕し、「総理大臣公邸よりも、官房長官公邸よりも、官僚の公邸の方が上なのかなあ」と溜息したという。
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「荻外荘」 |
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| 総理 | 在任 | 居住 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 田中義一 | 1927-1929 | 公邸 | 1929年:旧官邸と旧公邸が竣工、総理が公邸住まいになる。 |
| 濱口雄幸 | 1929-1931 | 公邸 | 1930年:東京駅で濱口が狙撃されて重傷、四ヵ月にわたって公邸に引き蘢り療養に専念する。 |
| 若槻禮次郎 | 1931 | 公邸 | |
| 犬養毅 | 1931-1932 | 公邸 | 1932年:五・一五事件。犬養が青年将校により公邸で射殺される。葬儀は官邸大ホールで行われる(旧官邸では唯一の例)。 |
| 齋藤實 | 1932-1934 | 公邸 | |
| 岡田啓介 | 1934-1936 | 公邸 | 1936年:二・二六事件。岡田の義弟・松尾伝蔵が総理と誤認されて青年将校により射殺される。 |
| 廣田弘毅 | 1936-1937 | 自宅 | |
| 林銑十郎 | 1937 | 自宅 | |
| 近衞文麿 | 1937-1939 | 自宅 | 1937年:杉並区荻窪の近衞の私邸「荻外荘」が政治の舞台となる。 |
| 平沼騏一郎 | 1939 | 自宅 | |
| 阿部信行 | 1939-1940 | 自宅 | |
| 米内光政 | 1940 | 自宅 | |
| 近衞文麿 | 1940-1941 | 自宅 | 1940年:「荻外荘」が再び政治の舞台となる。 |
| 東條英機 | 1941-1944 | 自宅 | |
| 小磯國昭 | 1944-1945 | 自宅 | |
| 鈴木貫太郎 | 1945 | 自宅 | 1945年:終戦の日の官邸襲撃事件が起り、鈴木の自宅も襲撃される。 |
| 東久邇宮稔彦王 | 1945 | 自宅 | |
| 幣原喜重郎 | 1945-1946 | 自宅 | |
| 吉田茂 | 1946-1947 | (公邸) | 1947年:芝白金台の旧朝香宮邸を外務大臣公邸とし、総理兼外相の吉田がこれを総理公邸として使用する。 |
| 片山哲 | 1947-1948 | 自宅 | |
| 芦田均 | 1948 | 自宅 | 1948年:片山内閣に外相として入閣し、総理となってからも吉田と同じように外相を兼任した芦田は、吉田とは違って外相公邸には近づこうともしなかった[10]。 |
| 吉田茂 | 1948-1954 | (公邸) | 1948年:吉田が外相公邸を再び総理公邸として使用。 1950年:旧朝香宮邸を迎賓館として整備するため民間に払い下げる。以後吉田は自宅住まいとなる[11]。 |
| 自宅 | |||
| 鳩山一郎 | 1954-1956 | 自宅 | 1954年:文京区音羽の鳩山の自邸「音羽御殿」が政治の舞台となる。 |
| 石橋湛山 | 1956-1957 | 自宅 | |
| 岸信介 | 1957-1960 | 自宅 | 1960年:60年安保で官邸がデモ隊に包囲され岸がカンヅメに。6月23日新安保条約の批准書が旧外相公邸で交換され発効する。 |
| 池田勇人 | 1960-1964 | 自宅 | 1963年:公邸改修工事開始。 |
| 佐藤榮作 | 1964-1972 | 自宅 | 1968年:公邸改修工事完了、佐藤が公邸に移り住み、総理として32年ぶりの公邸住まいとなる。 1970年:70年安保で官邸がデモ隊に包囲され佐藤がカンヅメに。 |
| 公邸 | |||
| 田中角榮 | 1972-1974 | 自宅 | 文京区目白台の田中の自邸「目白御殿」が政治の舞台となる。 |
| 三木武夫 | 1974-1976 | 公邸 | 1974年:「クリーン三木」を掲げて官邸入りした三木は、前任者との違いをアピールするため迷わず公邸住まいを選ぶ。 |
| 福田赳夫 | 1976-1978 | 自宅 | |
| 大平正芳 | 1978-1980 | 自宅 | |
| 鈴木善幸 | 1980-1982 | 自宅 | |
| 中曾根康弘 | 1982-1987 | 公邸 | 1982年:中曾根は官邸機能強化への地ならしとして任期中の5年間を通じて公邸で暮す。 1987年:官邸の建て替えを閣議決定。 |
| 竹下登 | 1987-1989 | 自宅 | |
| 宇野宗佑 | 1989 | 公邸 | |
| 海部俊樹 | 1989-1991 | 公邸 | |
| 宮澤喜一 | 1991-1993 | 自宅 | |
| 細川護煕 | 1993-1994 | 公邸 | |
| 羽田孜 | 1994 | 公邸 | 羽田内閣は、内閣不信任決議案が可決される公算が大きくなったことから総辞職。羽田はこの日の朝公邸を出ると二度そこには戻らず、替わりに数日後戻ってきた総理は村山だった[12]。 |
| 村山富市 | 1994-1996 | 公邸 | |
| 橋本龍太郎 | 1996-1998 | 公邸 | |
| 小渕恵三 | 1998-2000 | 公邸 | 1999年:新官邸の建設が始まる。 2000年:小渕が脳梗塞を発症して公邸で倒れて執務不能となり、順天堂医院に搬送される。 |
| 森喜朗 | 2000-2001 | 公邸 | |
| 小泉純一郎 | 2001-2006 | 公邸 | 2002年:新官邸が完成。小泉が旧官邸を出て、仮公邸となった品川区東五反田の内閣法制局長官公邸に移り住む。 2003年:旧官邸の移動改装工事が始まる。 2005年:新公邸が完成、小泉が移り住む。 |
| 仮公邸 | |||
| 公邸 | |||
| 安倍晋三 | 2006-2007 | 公邸 | |
| 福田康夫 | 2007-2008 | 公邸 | |
| 麻生太郎 | 2008- | 公邸 | 衆議院総選挙後の入居と公言していたが、2009年1月19日に自宅から公邸へ引っ越している。 |
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