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いしかわ よしのぶ
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| 生年月日 | 1940年11月24日(68歳) |
| 出生地 | 静岡県小笠郡佐束村 |
| 出身校 | 東京大学法学部卒業 |
| 前職 | 自治省行政局公務員部部長 |
| 所属政党 | 無所属 |
| 称号 | 法学士(東京大学・1964年) |
| 世襲の有無 | 無 |
| 親族 | 片山虎之助(義兄) |
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| 当選回数 | 4回 |
| 任期 | 1993年8月3日 - 2009年6月17日 |
| 表・話・編・歴 | |
石川 嘉延(いしかわ よしのぶ、1940年11月24日 - )は、自治官僚、政治家。
静岡県知事、内閣府中央防災会議委員、地震調査研究推進本部政策委員会委員、全国知事会理事・災害対策委員会委員長、学校法人静岡文化芸術大学理事長などを歴任した。
目次 |
静岡県小笠郡佐束村(現静岡県掛川市)出身。静岡県立掛川西高等学校を経て、東京大学法学部卒業後、自治省に入る。
一時、静岡県庁に出向し、静岡県総務部長を務めた。自治省復帰後は、行政局公務員第二課や公務員第一課の課長を経て、官房三課長の一つである大臣官房総務課長に就任した。その後、国土庁にて長官官房審議官を務め、自治省に戻ると大臣官房審議官、行政局公務員部長などを経て、1993年に静岡県知事に就任する。以降連続4期当選。行政改革や財政再建、防災対策などに手腕を発揮するが、2009年5月19日午前に県議会議長宛てに辞表を提出、同年6月17日に退任した。16年にわたる長期政権となったが有権者からの支持率は総じて高く、辞任表明後の世論調査でも県政を評価するとの回答が6割を超えた[1]。
知事在任中は、内閣府の中央防災会議委員、地震調査研究推進本部の政策委員会委員といった防災関連の公職を務めた。また、全国知事会では理事・災害対策委員会委員長・総務委員会委員・道州制委員会委員として活動し、新しい日本をつくる国民会議では知事・市町村長連合会議のメンバーとして参加した。静岡県や浜松市により設置された公設民営大学を運営する学校法人静岡文化芸術大学では理事長に就任した。さらに、財団法人世界緑茶協会会長、財団法人全日本剣道連盟顧問といった役職も務めた。
静岡県庁など県組織の機構改革を進めた。組織のフラット化を進め、総室&室体制に再編するとともに、県職員のポストを大幅に削減した。
職員数自体も8年間で約800人を削減した。
行政学に基づく「新公共経営(New Public Management)」を全国に先駆けて導入。さらに、電子県庁化を積極的に進め、数値目標を明記した業務棚卸表を導入し政策の立案、評価を実施した。また、長期人材育成システムを導入し、NPM総括リーダーやNPMリーダーといった専門性の高い人材を職員の中から育成した。
これらの手法は国や他の地方公共団体においても活用できると標榜し、総務省、総務省「新たな行政マネージメント研究会」、各都道府県へ資料提供し、「目的指向型行政運営システム」の普及を目指している。
静岡県の財政健全化を積極的に推し進めた。
1990年代の静岡県は、バブル景気終焉後の平成不況下で税収の落ち込みが顕著であり、国の総合経済対策に倣い高水準の公共事業投資を行っていた。しかし、公共事業投資は思ったほどの効果を齎さず税収は低迷したままとなり、財政状況の悪化を引き起こした。
石川は、1999年に財政緊急事態宣言を発表し、公共事業投資を含む歳出の大幅削減を打ち出した。翌年には財政健全化の数値目標を設定し、これを静岡県の全部局に徹底させた。2006年度の修正単年度収支では黒字化を達成し、以降の各修正単年度収支を黒字化させている。また、増加していた地方債残高も臨時財政対策債以外は減少に転じるなど、債務状況も大きく改善された。2007年には、地方公共団体への信用格付けにおいて格付投資情報センターが「AA+ [安定的]」[2]と判定するなど、財政再建の実現が図られた。
地方分権の推進には積極的であり、道州制の実現にも賛意を表明している。北海道知事の高橋はるみら他の知事とも連携し道州制の推進を訴えた[3]。
国から都道府県に大幅な権限委譲を主張している。2003年には、「政令県構想」を発表し、一定の規模、能力、財政基盤がある都道府県に対し国から権限を委譲するよう提案した[3]。なお、「政令県」とは、都道府県から権限を委譲される政令指定都市(政令市)をもじっている[3]。都道府県同士の合併により誕生した政令県が国の権限の受け皿となり、最終的に道州制に移行するとしていた。
2005年には政令県構想を地域再生特区に採択するよう提案したが、この提案は内閣府により不採択となった[3]。
県から市町村への権限委譲を積極的に推進した。合併で人口が一定規模に達した場合は、自動的に県から市町村に権限が移る枠組みを作るとともに、合併を選択しなかった市町村には広域連合などを活用して県の権限を委譲した[3]。その結果、石川の任期中に「市町村への権限移譲数」日本一を達成した[3]。
国から地方自治体への大幅な権限委譲を行った後、国は余った人員を「国家として期待される機能」の強化に投入すべきと主張している[4]。
具体的には、3つの領域での国の機能を強化するよう訴えている。まず、金融庁、証券取引等監視委員会、公正取引委員会、食品安全委員会に代表される経済や食の安全に関する監視・監査・研究機能の強化を訴えている[4]。次に、有事の土地収用や物資調達を都道府県知事の責任で実施することに疑問を呈し、防衛機能は国が直接責任を持つべきだとしている[4]。さらに、欧米に比べ外交の陣容が貧弱だと主張し、外交機能の強化を訴えている[4]。
静岡県の総合計画に盛り込まれ、「富国有徳しずおかの挑戦」をキャッチコピーとした。そして、富国有徳の県づくりを進めるため、志の高い「プレーヤー」の育成、定住の促進、活躍できる地域環境の整備の三点を静岡県が担うべきだと主張した。
「富国有徳」とは、「社会規範や良識、マナーが行き渡った中で、多くの人が、私欲にとらわれず、社会のために役立とうという志を持って活躍している社会を表しているということ」だと定義される。国際日本文化研究センター教授川勝平太が提唱し、内閣総理大臣小渕恵三が推進した理念である。
「ファルマバレー構想」とは、産・学・官(産業界、大学、研究機関、市町村)が連携し、富士山山麓に医療産業、ウェルネス産業、先端健康産業を集積させる構想である。この構想の実現により「県民の健康増進・疾病克服、産業の活性化・集積による県民の経済基盤の確立、そしてこれらの成果に基づく『快適空間の創造』」[5]を目指した。
2002年、静岡県長泉町に静岡県立静岡がんセンターを設立し、ファルマバレー構想の中核を担わせている。
静岡県は東海地震の発生が予想されていることから、「防災先進県」を標榜し、防災政策に重点を置いた。石川は、内閣府中央防災会議委員、全国知事会災害対策特別委員会委員長も務めた。
兵庫県南部地震とそれにともなう阪神・淡路大震災の教訓を元に、地震など緊急事態に対する県の即応体制の強化、充実を図った。1996年度より緊急事態発生時の即応部隊として機動的に活動するチームを編成し、緊急防災支援室「SPECT」として静岡県庁に設置した。「SPECT」の本部は、日本の高層建築の中でもっとも耐震性に優れた静岡県庁舎別館に設置されており、震災発生時にもその機能を失わず活動できるよう配慮された。翌年度には出先機関である県行政センターに防災監や防災専門スタッフを置き、その後は各部局に防災管理監を設置するなど、人的対応を強化した。静岡県庁の防災局を改組し、危機管理局を設置した。
静岡県が震源地と予想される「東海地震」に備え、「減災」の観点に基づく「TOUKAI-0」(とーかいぜろ)プロジェクトを推進した。このプロジェクトは、静岡県内の耐震基準を満たさない木造住宅の耐震化を推進することで、東海地震発生時の建築物倒壊を回避し、生命や財産を守ろうとするプロジェクトである。石川は、このプロジェクトでも新公共経営のマネジメント手法を導入し、「東海地震における旧基準の木造住宅の倒壊による死者をゼロにする。」[6]との数値目標を打ち出した。計画の詳細な内容や具体的な進捗度合は、ウェブサイト等で公開している。なお、このプロジェクトの名称は「東海」と「倒壊」をかけたものとされている。また、静岡県内で「TOKAI」のロゴが広く浸透しているザ・トーカイとは特に関係はない。
東海道新幹線を運営する東海旅客鉄道(JR東海)に対し、静岡県への新幹線停車の増加を提言した。
2002年12月9日の静岡県議会で、「JR東海は静岡県を軽視している」とした上で、「可能な限り静岡駅または県内のいずれかの1駅に『のぞみ』を停車して頂きたい」と要望。その上で「もし今後も県内素通りを行うのであれば『のぞみ』から通過税を徴収する」と発言した。
静岡空港建設予定地の地下に東海道新幹線が敷設されているため、静岡県はJR東海に「アクセス向上のため空港直下に新幹線新駅を作ってほしい」と要望したが、JR東海は技術的に困難である事と、掛川駅がすぐ近くに存在する事から運行ダイヤが確保できないなどの理由から、建設は困難であるとしている。
2007年5月15日の定例記者会見[7]において、JR東日本およびJR東海に対して、静岡県内の東海道本線について、「首都圏と中京圏を走っているJR線のサービス内容と静岡県を走っているJR線のサービス内容、ダイヤ、料金、車両の質の問題で、いろいろと見劣りがいたします。」と苦言を呈した。
2005年、福祉団体「柏朋会」の会報『ざ・とど』にて、寬仁親王が女系天皇容認論に対する見解を発表すると、石川はこれに対し自身の意見を発言した。
2005年11月14日、石川は定例記者会見で、寬仁親王の見解に対し、同様な考えを持っており共感したと発言した。さらに皇位継承資格者議論に対し、拙速な議論に疑問を呈し「伝統的な国のあり方にかかわるものを、わずか数か月で結論を出して、ある方向に持っていこうとするのはとんでもない話。余りにも拙速。有識者会議(=皇室典範に関する有識者会議)には皇室問題について長年研究してきた人が何人入っているかというとお寒い限り」と評した。
2006年(平成18年)9月25日、「酒を飲んだら全て免職というのは、日本の雇用慣行からすると死刑判決に等しい」と指摘した。さらに、「刑法でも罪状と結果に相応した罰則を科すのが原則だ。オートマチックに免職とするのはいかがなものか」と発言し、違法性や悪質さの度合いに合わせて処分の軽重を判断すべきとの考えを示した。
2006年10月27日の定例記者会見で、必修科目未履修問題(履修単位不足問題)に関連し、高等学校の責任のみならず教育の中央集権化も遠因であると指摘した。
必修科目が未履修となるのカリキュラムを組んだ高等学校は言語道断だと厳しく批判した。静岡県でも必修科目未履修の高等学校が相次いで見つかったことに触れ、静岡県教育委員会に「悪法も法と踏まえて対応しないといけない」と注文を付けた。「ゆとり教育で全国一色に染め上げてしまった」文部科学省による教育の中央集権化も遠因であるとし、現状の教育行政について批判した。さらに、時期を同じくして続発するいじめ自殺問題においても、文部科学省職員が全国各地に調査に赴いていることを指摘し、そこまでしないと是正できない地方の教育や、それで解決するかのような報道に対し、疑問を示した。それらを踏まえ、未履修問題を機会に地域で解決できれば地方分権化にとっても望ましいとした。
2007年2月21日、静岡県議会にて静岡空港が経営破綻した際の責任について質問され、石川は「在任中であれば最も重いのは『辞職』。知事として評価を下げ、次の選挙で落選のリスクを負う。退職後であれば『歴史的評価を下げること』になる」と答弁し、石川自身の強い覚悟を強調した。さらに、静岡県知事選挙では石川は毎回空港推進を訴えて当選しており、静岡県議会等議決機関の諒承も全て取っていることを指摘しつつ、「組織で仕事をする場合、独断ではできない。失政があれば社長以下総退陣することになる」と発言している。
上記静岡空港建設について進退をかけて取り組んでいたが、開港予定の半年前となる2008年10月に滑走路近くに航空法の制限表面を越える立ち木その他障害物件がある事が発覚し、静岡県は立ち木その他障害物件を保有する地権者と撤去の交渉を行なったが難航し、工事完成予定期日の3月に間に合わないことから暫定開港を目指し滑走路短縮工事を実施した。この責任をとり石川知事は給与の3割カット(3ヶ月)と期末手当の全額返上をおこなった。
その後国土交通省より6月4日の正式な静岡空港の開港の許可が下りた。後は立ち木など障害物件撤去問題を解決し完全開港への道筋をつけることが最優先課題と判断し、かねてから地権者より要求されていた撤去条件としての知事辞職を受け入れるとのことを表明した。その後、5月18日に立ち木がすべて撤去された事を受け、静岡県議会に辞表を提出、受理された。翌月17日をもって静岡県知事を退任した。
西松建設関連の政治団体2団体にパーティー券を買ってもらっていた問題と辞職との関連については、明確に否定している。
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