| 参議院議員 田中 康夫 | |||
|---|---|---|---|
| 生年月日 | 1956年4月12日(53歳) | ||
| 出生地 | 東京都武蔵野市 | ||
| 出身校 | 一橋大学法学部 | ||
| 学位・資格 | 法学士 | ||
| 前職 | 長野県知事 作家 |
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所属委員会
内閣役職
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参・国土交通委員会 委員 | ||
| 世襲 | 世襲ではない | ||
| 選出選挙区 | 比例区 | ||
| 当選回数 | 1回 | ||
| 所属党派 | 新党日本 (会派:民主党・新緑風会・国民新・日本) |
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| 党役職 | 代表 | ||
| 会館部屋番号 | 参議院議院会館416号室 | ||
| ウェブサイト | www.yasu-kichi.com | ||
田中 康夫(たなか やすお、1956年4月12日 - )は、日本の政治家、作家。参議院議員(1期)。新党日本代表。前長野県知事。愛称はヤッシー。
同姓同名で獨協医科大学名誉教授等がいるが、別人である。なお、父が非常勤講師を務めていた関係で松本歯科大学客員教授(入門歯科医学I担当)を務めたことはある[1]。
目次 |
1956年4月12日、東京都武蔵野市に生まれる。ただし本籍地は静岡県庵原郡富士川町(現・富士市)。父の田中博正(心理学者)が信州大学教授に就任したため、1964年4月に家族全員で長野県上田市に、さらに1966年には松本市に引っ越す。
1969年4月信州大学教育学部附属松本中学校に入学。中学在学中は初代サッカー部部長を務めた。
1975年、東京大学教養学部文科2類を受験する。英語、国語、数学が得意科目であった一方、歴史の知識問題などは、そのような分野で点数をとるのは邪道と考え、勉強を放棄。東大受験前に受けた模擬試験「東大オープン」では英語、国語、数学、地理、歴史等の全科目の総合得点で全国80位程度、英語だけなら全国3位という好成績であった[2]が、本試験の結果は不合格だった。同年3月には長野県松本深志高等学校を卒業、上京し東京の駿台予備学校で浪人生活を送る。この際駿台文庫の『基本英文700選』を愛用し、後に著書『田中康夫の大学受験講座』(1988年、マガジンハウス)においても同書を激賞している。この予備校時代は服などブランドものを買いあさる生活を送った。この日々が後に、大学在学中に執筆し、作家デビュー作となった『なんとなく、クリスタル』((文藝賞受賞)のモチーフとなっている[3]。
1976年4月、一橋大学法学部入学。なおしばしば田中は法学部出身であることを表す際に「方角を間違えて阿呆学部に入った僕は…」との表現を用いる。
1980年、第1作・小説『なんとなく、クリスタル』を執筆し、同年同作で「文藝賞」を受賞する。同作が執筆された背景には田中の所属していたサークル「一橋マーキュリー」での横領事件(サークル員の合意を取らずに資金を流用してサークル用に神宮前のマンションを借りていた事件)がある。当時田中は日本興業銀行(現みずほコーポレート銀行ないしみずほフィナンシャルグループ)から内定を得ていたが、事件を起こしたとして卒業予定日の直前に停学処分を受け留年し、そのあおりで日本興業銀行からもらっていた内定は取り消された。この停学期間を利用して『なんとなく、クリスタル』は執筆された。
1981年3月に一橋大学法学部を卒業し、同年4月モービル石油に入社するも3ヶ月で退社。以後、文筆活動やテレビ出演などを行う。
1991年には柄谷行人や中上健次らとともに、湾岸戦争への日本加担に反対する声明に参加している。こうした声明には田中は元来否定的だったが、声明文を「我々は」や「私たちは」ではなく「私は」とし、個人の連帯とすることで参加した。なお同声明に参加した作家は他にいとうせいこう、島田雅彦、高橋源一郎などがいる。
1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生する。小説『オン・ハッピネス』(1994年、新潮社)の舞台でもある神戸市の被災に衝撃を受け、ボランティア活動に従事した。『神戸震災日記』(1996年、新潮社)巻末では「活動を続けるうちに神戸と自らは多面性を持つ点で共通しているのではないかと思うようになった」と述懐している。
1998年「神戸市民投票を実現する会」の代表に就任。ボランティア活動を通じて、神戸市の公共事業関連の問題を知り、神戸空港建設反対運動を行う。
2000年、長野県知事選挙に出馬し、当選。2期務めるが、3選を目指した2006年知事選では落選(詳細は#長野県知事時代を参照)。2007年、参議院議員選挙比例区に新党日本から立候補し、初当選した。
自由民主党については、左右幅広い立場の議員が所属し実態がつかみづらいことから「鵺のような存在」としている。自民党所属の国会議員でも親しい人物はいるが、自民党が推し進めているアメリカ的な経済政策を導入する新自由主義経済路線を弱肉強食だと強く批判し、ある程度の経済格差は認めつつも最下層の幸せを確保する最小不幸社会を主張している。
小泉純一郎と竹中平蔵の打ち出した路線と自らの改革とは、車座集会とタウンミーティングその他や就任当時の高支持率など、類似性が多いように見え、実際に『サンデープロジェクト』など政治番組で問われた場面もあったが、両者は「似て非なるもの」と答えた。その後も小泉路線を「なんちゃって小泉・竹中へなちょこ構造改革」と表現している。なお小泉については第2次橋本内閣の厚生大臣だった当時から批判していた。
2003年にネクスト内閣の地方分権大臣に指名された民主党や、田中が政治的マキャベリストとしてしばしば賞賛する民主党現代表の小沢一郎とは比較的近い距離にある。ただし1990年代前中期、小沢が自民党幹事長、離党して新生党、さらに新進党に所属していた、言い換えればキングメーカー的存在だった時期はある程度政治姿勢は評価しつつも、やや批判寄りだった(後述)。この時期にはむしろ(小沢とは対立関係にあったとされる)梶山静六への好意的見解を示していた(同項目も参照)。
旧来の自民党的なばらまき政治・土建屋行政を批判・解体する一方で、左派の労働組合主義にも批判的であり、草の根市民運動に携わってきたことから自らを「ウルトラ無党派」としている。サッチャーの様に利権にまみれた旧体制を壊した後に、ブレアの様にクリーンで公正な社会を再構築する、という両方の役割を一人でこなす政治家だと自負している様に、イギリスの(市場原理を積極的に取り入れつつも福祉を重視する)第三の道に考え方が近い[4]。
石原慎太郎と田中は一橋大学出身、作家、知事経験者、それぞれ「クリスタル族」「太陽族」の生みの親と共通点が多いためしばしば比較対象とされるが、思想的には異なる部分が多く、知事在職時に日本外国特派員協会での講演で「彼自身がカワード(coward:臆病者)だから、失うものがあるから強い自分を演出している」と評したこともある(一方石原も「どっちがカワードだよ」と意味のことを返している)。また築地市場の豊洲への移転構想など石原都政への批判も行っている。
知事就任以前にも石原の『「NO」と言える日本』や三国人発言について批判している。ただし、「是々非々」をモットーとするという言葉通りに、義務教育費国庫負担の一般財源化が議論された際は協調したことや[5]、浜渦武生元・東京都副知事辞任の際には石原に好意的な発言を行ったこともある。
アフガニスタン侵攻やイラク戦争を引き起こしたジョージ・W・ブッシュ政権とそれを支持する自民党親米保守派を批判し、「反米」や「嫌米」ならぬアメリカと友好関係は保ちつつも言うべき意見は言う「諌米」と他国に依存しない自立外交を主張している。
一方ビル・クリントン政権については好意的な見方をすることが多く、モニカ・ルインスキーとのスキャンダル時にも擁護的な意見を述べていた。また政権下で副大統領を務めたアル・ゴアについても評価しており、ベネズエラのウゴ・チャベス反米左派政権の自立路線を賞賛している。
また日本の戦後責任に関しては、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーが1985年5月8日のドイツ連邦議会において行った演説中の一節「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」を引用することが多い。
外国人参政権の立法化にも積極的な見解を持ち、2007年11月8日国会開催期間中に、在日本大韓民国民団が主催する「永住外国人地方参政権の早期立法化を訴える全国決起大会」にも参加した。
2008年4月14日のTBSラジオ『BATTLE TALK RADIO アクセス』において、北京五輪反対を唱えることを批判した。北京五輪や長野県における聖火リレーに反対する勝谷誠彦や宮崎哲弥を右寄り保守とした上で批判対象とし、また同時に「チベットの支援者はダライラマの支援者で、かつダライラマが北京五輪開催に賛成し、チベットの独立を求めず、聖火リレーへの暴力を批判しているにもかかわらず、北京五輪や長野県における聖火リレーに反対することは矛盾している」、「かつて日本が戦争を行ったことやイラク戦争があることや米国によるニカラグアへの軍事的圧力など中国以外の国も同じようなことを行っているのだから批判できない、されるべきでない」という趣旨の発言を行った。また中国が多民族国家であることを根拠に中国がチベットに介入することを肯定、正当化した。
中国・チベット問題に関してかねてから連載コラム・ラジオなどで宗教指導者ダライ・ラマ14世の正当性には懐疑的である。中国共産党の温家宝に対して複数回支持を示している。上記ラジオ番組において北京五輪反対を唱えることを批判した際には、中国の要人がダライラマを呼ぶ際にラマ=法王という尊称を付けずに「ダライ」と呼ぶことと温家宝が「ダライラマ」と呼ぶことを比較した上でこれを根拠に、温家宝とダライラマが通じ合っており、温家宝がトップになった際には中国チベット問題は解決するという持論を展開している。
以前よりオリンピックのナショナリズム的側面自体を好んでいなかった[6]。
デビュー当初より他の対象とは区別することなく政治に対しての言及も行っていたが、1990年代より「神なき国のガリバー」その他においてそれが顕著となる。「新・文芸時評 読まずに語る」においては「大衆消費文化の申し子として右手から出てきて自分は何も変わっていないはずが、世の中という舞台全体がどんどん右に動いて、今は一番左に立たされているような気がする」と述べている。
1991年の東京都知事選で小沢一郎が磯村尚徳を支援したのに対し田中は当時現職の鈴木俊一を支持する意見を述べた(なお田中はそれ以前に鈴木を取材している。詳しくは当該項目参照)。また湾岸戦争時の海外派兵や小選挙区制導入には田中は反対の立場で、後に田中が結成する「新党日本」と名前の良く似ている日本新党を含め、1990年代前半の「新党ブーム」には当時厳しい評価をしており、細川護熙内閣に対しても当時のメディアや文化人が総じて画期的だと報じる中、田中は政治手法が翼賛的だと警鐘を鳴らしていた。
村山富市内閣には発足当時「理念なき野合」と評する意見が多かった中、「55年体制の二項対立を越えた内閣」と高評価を下していた。だが次第に「社会党が自民党も驚くくらい腰砕けになっている」と見方を変えた。特に阪神・淡路大震災時の危機管理のあり方については厳しい評価を下した。また青島幸男についても参議院議員時代や議員辞職後在野だった時期、さらに東京都知事就任後世界都市博覧会を中止とする決断をしたところまでは評価していたが、その後都市博中止以外の、破綻した2信用組合への対応など事実上の公約撤回に対しては「都市博を中止にしたところで都知事を辞職すれば良かった」と述べた。
阪神・淡路大震災の復興ボランティアや神戸空港反対運動に参加するなど市民運動に積極的に参加し、精力的な活動から長野県の市民団体などから2000年の知事選への立候補を打診され、出馬した。当初は出馬に消極的で、在野の立場から意見表明を行うのが自分にはふさわしいと考えていたが、田原総一朗など知人からも出馬を促され立候補した。
田中の出馬表明時には現職の吉村午良知事の後継と目されていた前副知事が日本共産党以外の県議会議員や農協や建設業団体など多くの業界団体の支持を得ていて当選確実だと言われていたが、旧態依然とした長野県政の現状に加え長野オリンピックの運営費をめぐる使途不明などのスキャンダルに批判が集中した。連合の組織的な支援に加え、若さと清新なイメージで幅広い支持を受け初当選を果たし、2000年10月26日に長野県知事に就任する(なお疑惑の中心人物として名が挙がっていた「ミスターナガノ」こと吉田総一郎は、その後田中康夫の後援会「しなやか会」の幹部となった)。
県知事就任後、「脱ダム」宣言や脱・記者クラブ宣言、車座集会など、歯に衣着せぬ発言や革新的な提案で県内外からの大きな支持と注目を集める。公共事業費や公務員人件費の削減を行ったため、長年赤字で財政再建団体へ転落寸前だった長野県の財政は黒字化し、5年間で923億円の累積債務を減少させた。また予算配分に関しては、全国で初めて全小学校の1-4年生の30人学級化を実現するなど、福祉や教育分野に重点的に配分させ、財政構造を大きく変化させた。その半面、県の「貯金」に当たる財政調整基金の大幅な取り崩しが行われた。
また、長野県の隣県であり、同じく中部圏知事会議の構成員である静岡県知事選挙において、現職の石川嘉延知事に対立する静岡空港反対派の新人候補を支援し、静岡県内で応援演説を行った。[7]。
マスメディアの注目を集め、中でもガラス張り知事室や当時の企業局長との「名刺折り曲げ事件」(当時の企業局長が挨拶に訪れた田中知事の名刺を折り曲げたもの)は大きな話題となった。就任直後の各新聞社の調査では軒並み高支持率であり、特に信濃毎日新聞の2000年12月の調査では91.3%を記録した。この状況にメディアの中には「思考停止に陥っており、ファシズムの様相を呈している」「ヒトラーの再来」と表現するものもあった。それに対し田中は「自分は体型的にはムッソリーニだしどちらかと言えばその方が好きだ」と返していた。
「脱ダム」宣言は、2001年2月20日に公式に発表され、ゼネコン主導の乱開発を否定するものとして多くの好意的な反響を呼んだ。その後、学識経験者などからなる治水・利水ダム等検討委員会が発足し、ダム計画のある河川の部会ごとに、ダムの必要性を徹底的に調査、審議した。政府から降りてくる公共事業費に頼りきりの体質を改善しようとする試みだが、このせいで県内の建設業界、県議会議員の多くから激しく批判されることとなった。 しかし治水・利水ダム等検討委員会が出した答申は、「ダムあり案」・「ダムなし案」の両案付記となり、特に浅川では、その後発表された計画が堤高30mから45mの堰堤を有する「河道内遊水池」と称する実質「ダム」であると批判され取り消した。
その後暫定案として本来は100年に1度の洪水に対応する治水計画を立案するところを、50年に1度の洪水の対応となる計画として既存の2箇所の溜池を改修し貯留能力を持たせる事(堰堤が15m未満は法律上ダムとならないため)を中心とした治水計画を発表したが、国土交通省との協議が安全性の低下が原因で不調となり、追加で河川と別に地下配水管を建設する事を発表した。(ダム建設とのコスト比較はなされなかった)なお浅川の治水計画は知事交代後「河道内遊水池」案に変更になった。
また長野県議会議員の多くは、長野新幹線の操車場建設時に治水の為ダム設置を約束しているので、約束の履行を求めているが、他県と同じく大手建設業者(ゼネコン)との癒着が一部から指摘されている。中止したダム事業#脱ダム宣言によるものも参照。
こうしたことから長野県議会との確執が顕著となり、2002年7月5日、とうとう6月定例会で知事不信任決議が可決された。その不信任決議を受け7月15日に、田中は知事失職を選択し、再び知事選が行われることとなった。そして9月1日の選挙で圧倒的な得票差を付け再任された。
知事就任以来、国主導の「平成の大合併」に対する慎重姿勢が際立っている。中山間地域などの合併が困難な町村に対して自立を支援する「長野モデル」を打ち出したり、「市町村合併をしない宣言」をした福島県東白川郡矢祭町を視察し、また合併の是非を問う住民投票が行われた千葉県四街道市や長崎県北松浦郡小値賀町などを訪れて合併反対派を応援したり合併反対の講演を行ったりした。長野県内では住民投票の結果を受けて合併協議が破談に追い込まれる事例が続出したが、これもこうした田中の慎重姿勢が少なからず影響していると考えられる。
それでも関係市町村議会の議決を経て合併を知事に申請した県内市町村の合併については、法に則ってその関連議案を定例県議会に提出してきたが、山口村と岐阜県中津川市の越県合併については、2004年4月に両市村からの申請を受理した後、6月、9月の定例県議会への合併関連議案提出を見送った。そして12月定例会への議案提出の条件として、全県民を対象とした意向調査の実施を決めたが、そのための関連予算案が9月定例会で否決されたことで、12月定例会でも田中知事は合併関連議案の提出を見送った。
このため、県議会の大半の会派(社民党、共産党を含む)の共同という形で合併関連議案を議員提案し、その可決を受けて知事も合併に同意、総務省への申請、官報告示を経て2005年2月13日に両市村は合併した。
「大手マスコミの情報独占を止めさせるため」として打ち出し、記者クラブに加盟できない多くのジャーナリストや外国メディア、雑誌から賞賛された。しかし、これにより既成権益(記者会見への出席独占だけでなく、記者クラブ事務所、およびその光熱費の提供が得られる)を守ろうとする新聞社をはじめとする大手マスコミから激しく非難され、読売新聞や信濃毎日新聞などの県内外の大手マスコミとの確執を生むきっかけとなった。常に記者クラブを利権談合の頂点と指摘していた親田中派のコラムニスト・勝谷誠彦は「登場した時は万歳と持ち上げておいて、記者クラブの利権が奪われると分かった途端に反田中派になって極端なネガティブキャンペーンにより落選に追い込んだ」と大手マスコミ、特に顕著だった信濃毎日新聞の姿勢を痛烈に非難した。
2004年1月のインタビュー取材で長野県を信州と改称することを検討していると発表。改称の理由として「道州制に先立って州を作る」、「観光などでは信州という名前のほうが有利」などを挙げた。以降、ウェブサイトや自己紹介などでは「信州・長野県知事」と名乗っていた(これ以降長野県の公式サイトでも「長野県知事の田中康夫です」から「信州知事の田中康夫です」と書き換えられた)。
実際に「信州」の愛称を常用する人も多く、数々の「信州ブランド」があるものの、背景としては中南信県民(田中自身も少年時代を松本市で過ごしている)が「長野県」を「長野」と略称することを好まないことがある。このことを示すかのように、2003年9月26日に住民票を長野市から下伊那郡泰阜村に移している。この問題は訴訟に発展し、2004年11月18日には同村の選挙人名簿に登録したことの適否に関する裁判で最高裁判所が上告を棄却し、田中は敗訴した。長野市の住宅を退去して泰阜村、両親宅がある軽井沢町から通勤していた。また2004年12月2日に北佐久郡軽井沢町へ住民票を移転した。
日本共産党長野県議団が長年にわたって要求してきた同和対策事業の見直し問題について、同党の意向を受ける形で、平成13年度(2001年)に26億7187万5千円あったものを、平成18年度(2006年)には4230万円までに縮小した。このような一種のタブーとされている領域にメスを入れた自治体は日本には少ない。ただし、この見直しは国の地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律の失効(2002年3月末)に合わせたものである。これを受けて県下の各市町村(昭和38年の長野県による答申では139市町村中で74市町村、266地区に4883世帯。平成5年の旧総務庁統計では121市町村中で59市町村、254地区に4596世帯。全体的な傾向として北信地方と東信地方に偏在していた)でも同和政策予算の見直しや削減が進んでいる。
かつてナチズムに抵抗するために共産主義者と手を結んだド・ゴールの話を引用し、小異を捨てて大同に付くべきだ(協力して自民党親米保守の新自由主義に抵抗すべき)として、2005年8月21日にパレスホテルで長野県知事在職中ながら、郵政民営化問題で離党した自民党保守本流派と新党日本立党に参加し、代表に就任する。
党代表に就任するも知事職は辞さず、副知事不在のまま選挙運動を行い県内に動揺を招いた。また、国民新党から参議院の長谷川憲正が出入りするなど「選挙互助会」と揶揄された。なお、この騒動の最中に朝日新聞長野支局記者が、亀井静香と田中康夫の会談が長野県であったかのような虚偽のメモをでっち上げ、それに基づいた捏造記事が紙面に掲載されるという事件も起きた。
2006年9月の首班指名選挙では新党日本に所属する荒井広幸参議院議員が、新党日本と統一会派を組んでいる国民新党の綿貫民輔に投票せず、自民党総裁の安倍晋三に投票。新党日本は代表の田中康夫が国会議員ではないために自主投票としていたが、国民新党がこれを問題視し、荒井への厳正処分を要求。党代表の田中が処分をしない方針を打ち出したため、国民新党は衆参両院において新党日本との統一会派を解消した。
急進的な政策転換に対しては野党が多くを占める県議会や業界団体の反発を惹起し、当初の知事選で支持していた連合も労働委員会の人事をめぐる対立から支持を撤回。代わりに当初田中に批判的だった日本共産党が田中を支持する状況になった。加えて、独特のパフォーマンスに対する批判から当初田中を擁立した面々も批判の度を強め、2選目の後期は支持率を落とした。
対立する議会との溝は埋まらず3選を目指した2006年の知事選では支援したのは共産党だけであった。さらに折りしも集中豪雨による洪水が多発し、田中の脱ダム政策に対する不信感が県民の間に芽生えた。自由民主党・公明党の推薦と連合の支援を受けてダム計画再開を主張するとともに組織型選挙を展開する対立候補の村井仁に競り負け落選した。田中の得票数は534,229票、村井は612,725票だった。村井は田中の改革や政治姿勢を「見せ掛けだけ」・「独裁者だ」と痛烈に批判、当選後は田中の全政策を完全否定・完全清算することを宣言し、田中知事の改革の象徴だったガラス貼りの知事室を廃止した。旧・ガラス貼り知事室は、長野県観光協会が使用することになった。
2006年8月31日、長野県知事(二期目)の任期満了に伴い退任したが、その後もしばらく通例は充て職の「信州・長野県観光協会 理事長」など13団体の役職に留まっていた。2006年10月、ようやくそうした役職に関する辞任届が提出されたことが報道される。
その後の2007年には、4月の東京都知事選や統一地方選挙の北海道夕張市長選挙への立候補を示唆したものの、最終的に見送った。
2007年7月の参議院議員選挙には、新党日本からジャーナリストの有田芳生らとともに比例区から立候補した。なお、この選挙の際に新党日本は選挙区には候補者を立てなかった。
その直前の7月5日には、幹事長の荒井広幸と総務会長の滝実が、党運営及び参院選に際しての選挙公約が党所属国会議員である滝と荒井の了承を経ずに決定されたことをめぐって離党し、結党当時に国会議員であったメンバーはいなくなる。これに伴い新党日本に現職国会議員がいなくなったことにより、選挙活動に対する政党助成金が大幅に減った。
しかし、政治団体の場合は比例区に候補者を擁立するには合計10人以上擁立しなければならないところだったが、2005年の衆院選の得票率で政党要件を満たしていたため、10人擁立しなくても比例全国ブロックで立候補できた。田中は比例区で458,211票を獲得し初当選した。この参院選における田中が当選したことに伴い在籍国会議員が復活したため、新党日本は再び政党助成金が受け取れるようになった。
なお、同年9月の第168臨時国会の開会を前に民主党代表・小沢一郎が単独会派での参院過半数をめざし、全国区で人気の高い田中に対して参議院での統一会派結成を打診。田中はこの要請を承諾し、9月10日付で統一会派「民主党・新緑風会・日本」を結成した。
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第17回文藝賞受賞作品となり、社会現象とまで言われたデビュー作『なんとなく、クリスタル』の、既成の文学の形態から逸脱した文体や視点(ややポストモダン文学寄りと言われている)は、当時日本の文学界に衝撃を与え、『純文学』的なものを良しとする風潮がまだまだ強かった文学界やマスコミを中心に賛否両論を巻き起こした。
「価値紊乱者」であることを自認している。これは言い換えれば「物質的ブランドと精神的ブランドは等価値であり優劣は付けられない」ということで、この主張はデビュー当時より行っている。また小説執筆の際は「サースティ」、すなわち「物質的には満ち足りているが精神的には不満足」といったテーマで作品を書くことが多く、同名の短編集も出している。
文藝賞選考委員を第33-34回、第39-42回、第45回と務めたこともあるが、前述のように精神的ブランドに依拠しているとしていわゆる「作家ギルド」的な集まりを嫌うこともあり、文学界では一匹狼的存在である。ただし決して既存の文学者との交流がなかったわけではなく、生前の川上宗薫や中上健次との思い出を著書で語っている。
かなりの遅筆であり、1994年当時の「ペログリ日記」中でも「どんな種類の原稿も同じスピードでしか書けない」と述べている(ただし当時は手書きでの執筆だったため、その後パソコン導入により執筆ペースが変化がもたらされた可能性はある)。また日常あまり用いない外来語や漢語を表現として用いることや、さらにそこに本来の読みとは異なるルビを振ることも多い。長野県知事時代にも「クリエイティブ・コンフリクト(=創造的な闘争、官僚との馴れ合いを排した議論)」「パブリック・サーヴァント(=公僕)」といった言葉が分かりづらいと指摘されたことがある。
ワーズワースの“Plain living, High thinking”という言葉を好み、いわゆる「清貧」や「暮らしは質素に、思いは高く」という意味にとどまらず「奢侈ではない、分に応じた飾らぬ、けれども物質的には豊かな生活の中から、豊かな心と高い理想、そして思考が生まれる」を表しているとしている。「矜持と諦観」、すなわちプライドと謙虚さを同時に持ち合わせることが重要とも主張している。
小説やエッセイ以外にも日記文学や各種評論の著書も多い。特に普段から利用しているホテルやレストラン、デパート業界などへの評論活動が知られており、著書だけではなく多数の雑誌への連載も行っていた。なお、長野県知事時代は公的な立場であるため評論活動は、自身の政策、活動の主張を盛り込んだ「ペログリ日記」や「愛の大目玉」などに限っていた。
村上春樹が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年 谷崎潤一郎賞を受賞)を発表してしばらくたった頃、田中康夫が当時レギュラーで出演していた『笑っていいとも』で「村上春樹は作家としてもうダメだ。これから先は何も書けないだろう」と言った(村上の次作は大ベストセラーになった『ノルウェイの森』)。それを村上が住宅ローンを組もうとしていた銀行の担当者が見て、住宅ローンを断られてしまった。テレビの社会的影響力を考えず無責任な発言をした田中を村上は揶揄を交えて批難している。[8]
「是々非々で評価する」として、親交の深い関係にある対象でも容赦なく批判することも、かつて激しく叩いた対象を一転して評価することも多い。例えば『朝日ジャーナル』時代に「若者たちの神々」最終回で対談し、その後「ファディッシュ考現学」連載を依頼された筑紫哲也を、田中が前述のように厳しい評価を下していた細川内閣に対して筑紫が無批判であったことから「筑紫哲也朽ちたり」と評したり、阪神・淡路大震災時の報道姿勢について「湯治場発言」や田中の知人の受けた取材に問題があるとして批判したりもした。デビュー時に『なんとなく、クリスタル』を高く評価した江藤淳にも忌憚なく意見を述べていた。
また1990年代中盤まではコンピュータやネット関連は揶揄の対象、あるいは無関心で、自らが機械音痴であることを認めていた。例えばWindows95発売が『モーニングEye』出演時に取り上げられた際にはほとんど興味を示していなかったが、1990年代終盤にパソコンを購入し、以降パソコン及びインターネットの利点を盛んに主張するようになった。「既存のメディアにない自由闊達な議論が行われている」と2ちゃんねるが比較的無名な頃より評価しており、自らも2ちゃんねらーであることを公言していた。長野県知事時代もメールで意見を広く募ることを売りにしたり、ネットを活用することで迅速さや効率を向上させることを目指す発言をしたりしていた。「Linux的生き方とは」という講演も行っている。[9]しかし2000年代中盤になってからはインターネットや2ちゃんねるへの賞賛はほとんど見られなくなり、ネット右翼への否定的意見も表明している。
運輸業界に対しては1980年代後半には閉鎖的体質についてJALを、1990年代前半には事実上の独占状態についてJRを、1990年代後半にはかつての余裕が失われているとしてANAを批判した。JR批判の際は批判が掲載された「SPA!」が数ヶ月間全てのJRの駅キオスク売店に置かれなくなったこともあった。
前出「ファディッシュ考現学」時代は講談社について、当時の「FRIDAY」の副編集長が創刊時に述べた「雑誌としての理念なんてない」という発言を引き合いに出し、編集姿勢や他社刊行の雑誌との類似性(例:「FRIDAY」と「FOCUS」、「Hot-Dog PRESS」と「POPEYE」など)を批判し「大日本雄弁会講談社(講談社の旧社名)に連載や執筆の類を行ったことがないのを誇りに思っているのはこの私」とまで述べていた。
しかし後には「肩の力の抜けた出版社になった」として「週刊現代」その他で連載を持つなど、講談社とは友好関係にある。1994年当時に景山民夫が講談社批判を行った際にも「ポスト・ファッディッシュな評価をすべき」(=『ファッディッシュ』当時とは状況が異なる)と述べている。講談社と同じく音羽グループに属し、やはり批判対象だった光文社についても同様に連載を行った。
また角川書店とは、1980年代には単行本が文庫本化される際に角川文庫から出版されることが多かったが、1990年代初頭を境に文庫本は河出書房新社その他から出版するようになり、角川文庫収録作品も河出文庫より再刊された。一方会社設立当初には同時期作られた日本新党になぞらえて揶揄していた幻冬舎から著書も出している。
扶桑社とは阪神・淡路大震災時にダイエーが行っていた商行為に関しての事実関係を巡って、「神なき国のガリバー」連載終了となり一時期関係が冷え込んだが、その後は関係を回復している。
「感覚の論理学」 (青木保との共著)
これ以外に「田中康夫のトレンドペーパー」という会員制雑誌を1980年代に発刊していた。表紙イラストは渡辺和博だった。「ソムリエに訊け」も同誌の連載が元になっている。
「テレビは見るものではなく出るもの」が持論で、ほとんどテレビ視聴の習慣はないと「ペログリ日記」当時には述べている。「なんとなく、クリスタル」で話題を呼んだ後、フジテレビ「笑っていいとも!」金曜日のコーナー「五つの焦点(フォーカス)」にレギュラー出演したのを皮切りに、テレビ朝日の女性向け情報番組「Oh!エルくらぶ」(1986年 - 1992年、番組自体は1997年まで)、読売テレビのワイドショー「Beアップル2時!」(1992年 - 1993年)では司会も務めた。それ以外にも報道番組への積極的な出演のほか、バラエティ番組をはじめ、数多くの番組に出演した。また、フジテレビ「たけし・逸見の平成教育委員会」では生徒(解答者)として出演。「たけし落とし」を完成させ、世界一周海外留学の旅を獲得したこともある。(なおビートたけしとの関係は当該項目を参照のこと。)
県知事就任以降は、長野県の観光資源を広くPRする事を意識し、トーク番組やバラエティ番組の出演の際には、県の名産品などを積極的に紹介することが多かった。また、長野県内で流れる「シートベルト装着」のキャンペーンCMにも自ら出演し、呼びかけを行っていた(SMAP×SMAPでのゲスト出演の際など)。
ラジオ番組の出演も多く、過去には文化放送「梶原しげるの本気でDONDON」のコメンテーターを長年に亘り担当。この他、大阪・MBSラジオの「さてはトコトン菊水丸」をはじめ、神戸空港問題で旧知の仲となった河内音頭の歌手・河内家菊水丸がパーソナリティを務めるワイド番組にも不定期で出演。また、TBSラジオの「BATTLE TALK RADIO アクセス」では、2007年現在も隔週月曜のコメンテーターとして出演している。なお、この番組は月曜から金曜までの放送だが、知事就任後から2005年3月まで、地元長野のSBC信越放送が、田中が出演する月曜のみネットし、放送していた。それ以外にも2008年現在は文化放送「吉田照美 ソコダイジナトコ」の毎週火曜日にも午前7時から10分間、主に電話で出演している。
1982年に発売された企画もののLPレコード「音版ビックリハウス ウルトラサイケ・ビックリパーティー」 の中で、雑誌「ビックリハウス」の編集長・高橋章子とのデュエットで「ブリリアントなクリスタルカクテル」(作詞:田辺聖子/作曲:沢田研二)という曲を収録し、発売した。この時のレコーディングの模様は、知事初当選の翌朝、一部テレビ番組で秘蔵映像として放送された。また、1981年に発売された柴田恭兵の楽曲「なんとなくクリスタル」に作詞家としてデビューを果たしている。
離婚歴が1回あるもののその後は独身である。女性関係に関しては著作内やテレビ出演時にも自ら頻繁に言及しているほか、恋愛に関する著書も多数ある。知事選出馬時には相手候補が『ペログリ日記』の一節をコピーして配り、「第2の横山ノックになる」とネガティブ・キャンペーンを行った(が逆効果であった)こともあった。なお『ペログリ日記』の「ペログリ」とは田中の造語「ペロペロちゃん、グリグリちゃん」の略で、より正確にはもともとは同語が雑誌で取り上げられた際に略されたもので、当初は「余裕がなさそうにも思える」としていた。後に「お食事後に性行為をする」の意味で「おショックス」なる概念も提唱したものの、こちらは定着しなかった。
また作家デビュー当時から自動車を使ったデートスポットなどの評論を行っていたことや、著書内で自動車ブランドの考察を行っていたことなどから、ファッション誌などで評論を行う他、「NAVI」などの自動車雑誌への不定期連載も行っていた。なお、過去は「飛ばし屋」としても有名で、アウディに乗っていた頃に数回全損事故を起こした経験がある。
父は心理学者で元上越教育大学副学長の田中博正(たなか ひろまさ、1930年3月25日 - 元信州大学教授。東京教育大学卒業、東京教育大学教育学博士)。実妹及びその夫はともに新潟大学医学部を卒業した医師であり[10]、2003年には主治医及び妹夫婦からの助言を受け膀胱腫瘍の切除と人工膀胱の造設手術を受けている[11]。なお、母は早稲田大学卒業[12]。
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