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日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから、また今日一般的に日の丸(ひのまる)と呼ばれる旗である。
国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)の規定によれば、旗の形は縦が横の3分の2の長方形。日章の直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。色は地は白色、日章は紅色とされている。
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日本人は古来、太陽を信仰の対象としており、聖徳太子も隋の皇帝・煬帝へ、「日出処天子―」で始まる手紙を送っている。また国名「日本」(日ノ本)というところからも太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を大切にしていたことが窺えよう。 神社の拝殿は基本的に太陽を拝める方角を向いており背を向けることは珍しく、そのことからも太陽への信仰は窺える。
太陽信仰や「日ノ本」の国という意識が具体的に記載されている文献としては、797年(延暦16年)の『続日本紀』の中にある文武天皇の701年(大宝元年)の朝賀の儀に関する記述で、正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれている[2]。
世界的・歴史的に太陽が赤で描かれることは珍しく、太陽は黄色または金色、それに対して月は白色または銀色で表すのが一般的である[3]。日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことが一般的であったというわけではない。例えば高松塚古墳、キトラ古墳には東西の壁に日象・月象が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されている。また文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られるが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されている。これは世俗的にも共通した表現であったようであり、『平家物語』などの記述などからも平安末期の頃までの日輪の表現は通常赤地に金丸であったと考えられている。対して赤い真円で太陽を表現する系譜は、中国漢時代の帛画に遡る(上の日像幢と同様に内側に黒い烏を配するものである)。日本での古い例としては、法隆寺の玉虫の厨子の背面の須弥山図に、赤い真円で表された日象が確認される。また平安時代においても密教図像などに見出される表現であり、中国から仏教とともにもたらされた慣習であると推測される。こうした表現が原型となり、白地赤丸の日章旗が生まれたと考えるのが妥当であろう。なお日本では紅白がめでたい色とされており、日章旗が定着していった事実は日本人の色彩文化を知るうえで興味深い。ちなみに「あか(赤)」の語源は「あかし(明し)(あかるい)」と同源であるという[4]。
現存最古の日章旗としては、山梨県甲州市の裂石山雲峰寺所蔵のものが知られている。これは後冷泉天皇より源義光(新羅三郎)へ下賜されたという伝承があり、「御旗」(みはた)と呼ばれて義光の系譜に連なる甲斐源氏宗家の甲斐武田家に家宝として伝来した。伝世品のため真偽のほどは不明だが、中世前半に遡る遺例として貴重である。また同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市(旧西吉野村)の堀家に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られる。
室町時代の勘合貿易、豊臣秀吉から徳川家光の第3次鎖国令が出される1635年(寛永12年)までの間に行われた朱印船貿易の際に日本の船籍を表すものとして船の船尾に日の丸の旗が掲げられた。
近世には簡易な装飾として普及していた。江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い旭日の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。
一方、船印としては、薩摩藩に服属していた琉球王国が中国への進貢船に日章旗を用いており、これは当時の絵図からも確認することができる[5]。進貢船の派遣自体は14世紀まで遡るが、日の丸を掲げるようになったのがいつからかは定かではない。しかし19世紀初頭の屏風絵[5]にははっきりと描かれている。他にもハーリーで用いられる爬竜船の船尾部にも日の丸の幟が掲げられていた[5]。
ちなみに日の丸(日輪)は、琉球でも太陽神(テダガミ)の象徴として、船印だけでなく首里王府が建てる石碑(玉陵の碑文など)にも刻まれていた。琉球では、古くから太陽神が信仰されており、進貢船の日の丸も航海の無事を太陽神に祈る意味で使用されたものである[6]。
近世における船旗関連の資料としては、1635年(寛永12年)に江戸幕府が建造した史上最大の安宅船「天下丸」(通称「安宅丸」)で「日の丸」の幟が使用されているのが知られている[7]。東京国立博物館が所蔵する『御船図』(江戸時代・19世紀作)にも安宅丸が描かれており、船尾に複数の日の丸の幟が描かれている。江戸幕府の所持船の船印として、一般には徳川氏の家紋「丸に三つ葉葵」を用いたが、将軍家の所持船には日の丸を用いることもあった。
また、1673年(寛文13年)に、江戸幕府が一般の廻船と天領からの年貢米(御城米)を輸送する御城米廻船を区別するために「城米回漕令条」を発布し、その中で「御城米船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け、其脇に面々苗字名是を書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付けらる可く候」と、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、幕末まで続いた。
1854年(嘉永7年)3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じた。幕府の重臣は当初「大中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の旗。白地に黒の横一文字)を日本惣船印に考えていたが、薩摩藩主島津斉彬、幕府海防参与徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟を用いることになり、同7月9日、老中阿部正弘により布告された。島津斉彬が進言した理由は、俗に鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったと言われている。翌1855年(安政2年)、島津斉彬は琉砲船「昇平丸」[8]を幕府に献上するが、このとき初めて日章旗が船尾部に掲揚された。これが日章旗を日本の船旗として掲揚した第一号である[9]。
1859年(安政6年)、幕府は幟から旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上国旗の地位を確立したのはこれが最初である。
1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、外国奉行新見豊前守正興を正使とする幕府使節団がアメリカ合衆国に派遣され、アメリカ軍艦ポーハタン号と咸臨丸に分乗して太平洋を横断した。使節団はサンフランシスコに到着後、更に陸路・海路を経由してワシントンD.C.に到着し、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンを謁見して批准書の交換を終えた。その後、使節一行はニューヨークを訪問するが、日章旗と星条旗が掲げられたブロードウェイをパレードする模様が伝えられている[10]。これが日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。
1870年2月27日(明治3年1月27日)制定の商船規則(明治3年太政官布告第57号)に「御國旗」として規定され、日本船の目印として採用された。規格は現行とは若干異なり、縦横比は7対10、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていた。この日を記念して国旗協会は国旗制定記念日を制定し、国旗掲揚の日としている。
以後、日章旗は国旗として扱われるようになったが、「国旗」としての法的な裏付けは太政官布告のままであり、法令として存在しなかった。1931年(昭和6年)2月、第59回帝国議会において全11条及び附則からなる「大日本帝国国旗法案」が衆議院議員石原善三郎により提案され、同年3月26日衆議院本会議において可決された。しかしながら貴族院送付後の3月28日、勅命による帝国議会閉会により審議未了廃案となり、続く第60回帝国議会に再提出されたものの衆議院解散により再度廃案となり、結局成立しなかった。
1945年、連合国軍総司令部(GHQ)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止された。この間、商船旗としては国際信号旗のE旗に基づいた旗が代用された。祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、1949年より日章旗の自由掲揚が認められる。
第二次世界大戦後から国旗国歌法制定までのあいだ、反・日の丸を主張する勢力(日本教職員組合、日本共産党、朝日新聞が代表的な勢力)は日章旗の国旗としての法的正当性に疑義を唱えることがあった。これに対し日章旗を国旗と認める勢力(自民党など保守派)は日章旗が日本国旗であることは一種の慣習法と考えられることなどを主張、その根拠として前出の商船規則、大喪中ノ国旗掲揚方のほかにも複数の法令の条文中に「国旗」の文字が使用され「日本国旗が存在することが当然の前提とされている」ことを挙げていた。国旗国歌法制定前の法律で日本国旗を意味する「国旗」の文字を含んでいた事例は次のとおり(当該条文は後に部分的に文言が改正されたものもあるがここでは初制定時のものを掲載。国会の審議を経ない命令(政令以下)での使用例は省略。旧字体新字置換)。
1990年代末から学校の式典等における日章旗掲揚に係わる問題が頻発、掲揚に反発する教職員(日教組)とのトラブルから高校校長に自殺者が出るに至った。背景には教育現場における日の丸掲揚と君が代斉唱に対する反対運動があった[11]。このことに対処するため、1999年(平成11年)には国旗国歌法が公布され、正式に国旗として定められた。
詳細は「国旗及び国歌に関する法律」を参照
なお、大喪時の掲揚方法は、大喪中ノ国旗掲揚方(大正元年閣令第1号)に定められている。
国旗国歌法成立後も一部の教育現場において国旗掲揚に対する賛成派と反対派の対立が続いた。このため、2006年10月31日には衆議院の教育基本法に関する特別委員会において自民党の稲田朋美議員から学習指導要領の国旗・国歌条項にのっとって教職員には入学式、卒業式において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する職務上の義務があるかどうかとの質問が出された。この質問に対して伊吹文明文科大臣と民主党の藤村修議員の両名とも教職員にはその義務があると答えている。
国旗国歌法の本則における日章旗の制式は、縦横比を2対3、旗の中心(対角線の交点)を中心とし、縦の長さの5分の3を直径とした円(日章、日輪)を描くのが正式である。なお、日章の赤は法律では「紅色」となっており、JIS慣用色名ではマンセル色体系で 3R 4/14 であるが、実際には金赤(同 9R 5.5/14)が使われることも多い。
長らく慣行(商船規則で定められた制式)として、縦横比を7対10とし、日章を旗の中心より旗竿側に100分の1近づけた点を中心として描くものが使用されてきたため、国旗国歌法の附則第3項で当分の間この制式も用いることができる旨の特例が定められている。両者の縦横比を最小公倍数に換算すると、本則:14対21、特例:14対20となり、本則のほうがやや横長(あるいは特例のほうが縦長)となるが、日章と白地のバランスとしては特例の方が安定している、風にはためく時の見栄えは日章が旗竿に寄っているほうが美しい、とする意見もある。
日章旗は大日本帝国陸軍の軍旗として 自衛隊の兵器に記される国籍マークは大日本帝国軍時代から白のふちどりがついた日の丸であらわされる。また大日本帝国陸海軍の軍旗、軍艦旗となっていた旭日旗は海上自衛隊が自衛艦旗としてそのまま受け継ぎ、陸上自衛隊はデザインを変更した自衛隊旗を使用している。
青は海・空、白は陸で、接点に税関があることを表している。明治25年に制定。
安津素彦の著作『国旗の歴史』に、明治時代にイギリスまたはフランスが日の丸の意匠を買い取ろうとしたという記述がある。また、この日の丸買収の話は、伊本俊二の著作『国旗 日の丸』[12]では、『1874年(明治7年)の春頃にイギリスが買収(当時の500万円)を申し出て、寺島宗則外務卿を相手に交渉した』としている。 ただしこの説は吹浦忠正が著書である『「日の丸」を科学する』の中で「真偽は不明とはいえ、私は単なるジョークないし外交辞令上のものではなかったのではないかとほとんど無視することにしている」[13]と結論づけている。
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フィールドが無地であり、無地の円のみがチャージされた長方形の旗を掲載:
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国際信号旗 I (India) |
各種世論調査によれば、大多数の日本国民は国旗国歌法の制定前から日章旗を国旗として受け入れている。一例として、テレビ朝日が1999年7月に行った世論調査では、日章旗を日本の国旗とすることに反対する国民は8%のみであった[14]。サッカーやバレーボールの国際試合において日章旗をモチーフとしたフェイスペインティングも一般化している。
沖縄における感情の変遷は独特である。日章旗は、1945年から1972年までのアメリカ軍統治時代には多くの住民のあいだで日本復帰を求める象徴で各家では日の丸を大切に所持していたが、日本復帰後には望んでいた昭和天皇の来島が叶わなかったことや日本政府の対米政策(米軍基地問題など)を巡る不満から、一転して日本政府への抗議の象徴として使用される傾向がある[要出典]。
第二次世界大戦後、国旗・日章旗の掲揚が公共機関等に限られ、各家庭や個人での掲揚が稀となった。そこで、祝日等における積極的な掲揚を勧める者もいる。
以下、例を挙げる。
このように、国旗掲揚は祝日に限っており、振替休日・国民の休日には掲揚(又は表記)しないことが多い。振替休日・国民の休日には、祝日とは異なり、暦上の日取り以外に休日の「祝う意味合い」がないためだと思われる。
上記のように国旗としての日章旗は多くの日本国民に受容されている。ただし、主に教育界で国旗掲揚が強制されているとする認識により(国旗及び国歌に関する法律#公立学校と国旗国歌について参照)日章旗に対する議論や批判はみられる。いわゆる左翼勢力である日本社会党・日本共産党・新社会党・日本教職員組合・全日本教職員組合、朝日新聞を中心に毎日新聞・中日新聞・東京新聞・琉球新報等でも国歌(君が代)とともに国旗である日章旗掲揚に対して希に批判的な記事が掲載される。ただし、これらの媒体においても、日章旗を国旗とすること自体への否定論は現在ではほとんど見ることはなくなった。
なお、かつては創価学会・公明党等が日章旗への批判を行うなど、日章旗への反発は比較的広く存在していた[15]。同じ敗戦国であるドイツが戦後国旗を変えていることと比較して、戦争責任論について語られることもあった(ただし、現在のドイツ国旗は戦前のヴァイマル共和政時代の国旗を採用したものであり、戦前の国旗が復活した形になる。なお、現在のドイツ連邦共和国は戦前のドイツ国とは国家体制上連続しておらず、1935年にドイツ国の国旗として制定されたハーケンクロイツの掲揚は禁止されている。)。日章旗そのものへの反対意見は今ではほとんどなくなっているが、強制とみなす立場から学校での日章旗への掲揚に反対する意見[16]は現在でも後を絶たない。
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太平洋戦争での日本の軍事行動や占領で(当然のことだが)日章旗が伴ったことから、当時、日本軍に盛んに抵抗した東南アジア在住の華僑(商人・植民地での労働者して東南アジアに移住した中国人達)や当時戦場となった中国大陸に居住していた民衆が多く属している中華人民共和国では日章旗に対し嫌悪感を示すものが多い。特に共産党政権維持と中国の国益のため反日教育が政策として取り入れられる中華人民共和国では日章旗を大日本帝国の犯罪行為を示す道具として盛んに用いる。また李氏朝鮮時代の朱子学政策による固定思想化と終戦時に発生した朝鮮半島の南北分裂による動乱[17]から国家の求心力・政権力を高めるため韓国・北朝鮮双方では日本による韓国統治を政策に利用し反日教育が行われているため、日本に嫌悪感を抱く者がいる。このような背景から韓国人の中にも感情的に日章旗を燃やされたり、踏みつけるなど抗議をする場面はよく見られる。近年ではアメリカに住む中国・韓国系アメリカ人も同様の行動を取り、現代においては過大に被害が加算され、被害者数や住民の計画虐殺など一部が明確に捏造されていることが明らかとなっている、いわゆる「南京大虐殺」などを題材とした反日映画を北米で盛んに作製し全米をはじめ世界(特に中国がODA支援を行っているアフリカや中近東地域)に向けて発信している。映画作品の多くは「ザ・レイプ・オブ・南京」などの反日思想の作品を参考にしていることから日本帝国主義の象徴とし日章旗が盛んに描写されている。
なお前者の韓国・北朝鮮とは異なり、台湾では戦後に勃発した国共内戦に破れて台湾に来た中国国民党軍の統治があまりにも酷かった(当時「犬(日本)が去って豚(国民党)が来た」とまで言われた)ことや最近の日本文化の影響も加わり、日本・日章旗を好意的に見る傾向が強い。また台湾の国家整備の中で前日本統治時代に後藤新平などの日本人が残した遺産やノウハウがその後の国家形成に役立ったことも評価される要因の一つとなっている。
また当時、インド・東南アジア・東アジアに植民地・利権を持っていたアメリカ・イギリス・オランダ・フランスなどの国では、南方資源帯の確保と援蒋ルートの遮断及び大東亜共栄圏の建設を目指した日本軍と敵対し、戦火を交えたことから、一部の人々から嫌悪感を示されることがある。代表例として、1971年に昭和天皇がイギリス、オランダを訪問した際には激しい抗議集会が起こり、日章旗が焼かれた。特にオランダは第2次世界大戦ではオランダ本国がドイツに侵略され戦場となったことから、戦後社会が疲弊した。そんな中で最大の植民地(オランダの国家予算収入の3分1を占める地域)だった東インドをインドネシア独立戦争で失い、経済に大打撃を受けると共にその植民地維持のための強行姿勢が国際社会から非難をあびたことから、独立戦争の要因を作った日本と独立戦争の指導にあたった日本兵の行動に対する評価も加わり、反日感情が長らく残った。今日においても1991年に来日した際、オランダ女王は1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書にて賠償問題が法的には国家間で解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会で「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」と述べ賠償を要求している。 その一方で約300年以上もの間、欧米諸国に植民地支配され自信を失っていたフィリピン、インドネシア、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、インドなどの国々やアジア解放のために協力したタイ王国では日本を主にアジア独立の見地から評価し、欧米と対等に戦い、真珠湾攻撃・マレー沖海戦・特別攻撃などを通じて東洋人・有色人種でも白人に勝てるという自信と勇気を与えたこと、目的を成し遂げるためには大変な努力が必要であることを身をもって教えてくれたこと、そして大和魂(民族の誇りや愛国心など)を教えてくれたこと、植民地政策を行った国家の中で唯一、被害国側に謝罪をしてくれたことなどから日章旗・旭日旗に敬意を示す地域(東南アジア、オセアニア地域、インド、中東、アフリカなど)も多い。
パラオ[18]の旗印には「日章旗の影響が見られる」との主張がある。パラオの国旗#起源に関する諸説も参照[19]。
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