| 君が代 | |||||||||
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「君が代」の楽譜(国旗及び国歌に関する法律による)
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| 国歌の対象 | |||||||||
| 作詞 | 不明(読人しらず)(905年初出) | ||||||||
| 作曲 | 林廣守(1880年) | ||||||||
| 採用時期 | 1880年10月26日(非公式) 1999年8月13日(立法化) |
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| 試聴 | |||||||||
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| 表・話・編・歴 | |||||||||
君が代(きみがよ)は、日本の国歌。
1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代に林廣守が作曲した。詳細は後述する。
目次 |
1880年(明治13年)、日本の国歌として君が代が採用された。君が代は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである。バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。日本の国歌の歌詞とチェンバレンの訳を以下に引用する。(歌詞と読みは国旗国歌法の表記による。歴史的仮名遣いでは、「巌」の仮名書きは「いはほ」である)。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで– 君が代, 日本の国歌
汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
A thousand years of happy life be thine!
Live on, my Lord, till what are pebbles now,
By age united, to great rocks shall grow,
Whose venerable sides the moss doth line.
国歌は、近代西洋において生まれ、幕末、日本が開国した時点において、外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌の有り様は、1876年(明治9年)に、海軍楽長・中村裕庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」[2]
つまり国歌の必要性は、まずなによりも、外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌・国王行進曲のように、歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって、明治初年の日本ではなじみがなく、当初はNational anthemの訳語もなかった。国歌と訳した[注 1]後も、国歌は和歌と同義に使われていた言葉であったため、長らく漢詩に対するやまと言葉の国歌という意味の方が浸透した状態で、National anthemの意味するところは、なかなか国民一般の理解するところとならなかった[2]。
こういった、和歌を国民文学とする意識からすれば、日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌君が代制定の経緯を初めて研究し、遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助も、まずは歌詞についての考察から始めている。
作者は未詳である。
歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが、古今集のテクストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)[3][4]。
和漢朗詠集においても、古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については、初句「我が君」の和歌が、古今和歌集と古今和歌六帖以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから、時代の潮流で、賀歌の「我が君」という直接的な表現が、「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないか、と推測されている[5]。
なお、古今和歌六帖では、上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、古今和歌集も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては、「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた。[5]
国歌の原歌が、古今和歌集の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」が天皇であるのかどうか、ということがしばしば問題にされる。
古今和歌集収録の歌として、ごく一般的な「君」の解釈を述べるならば、「君は広くもちいる言葉であって、天皇をさすとは限らない」ということであり、それ以上はなにも断定できない。[6]。
ところで、古今和歌集巻七の賀歌22首のうち18首は、特定の個人[注 2]の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで、作歌年代も古いと見られ、歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがって、この「君」は特定の個人をさすものではなく、治世の君(古今和歌集の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる。[7]。
しかしこれは、あくまでも古今和歌集賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると、朗詠は詠唱するものであり、どういう場で詠唱されたかという、場の問題が大きく出てくる。さらに後世、初句が「君が代は」となり、さまざまな形で世に流布されるにつれ、歌われる場も多様となり、解釈の状況が変わっていくことは後述する。
ちなみに、そういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子である、とする注釈書も存在する。続群書類従第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』[注 3]である。堯智は、橘清友の名を出して、初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので、少なくとも17世紀半ば、江戸時代前期において、天皇の御世を長かれと祝賀する歌である、とする解釈が存在したことは確かである。[2]。
古今和歌集に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば、「君」の意味するところは、時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し、算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は、院政期に入って顕著になってくるもので、王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で、勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないか、とされている。[7]
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更に時代が下り江戸時代頃には、この歌は一般的な祝いの席で祝いの歌として庶民の間でも歌われるようになった。それに伴い「君」の解釈にも変化が生じ、例えば婚儀の席で歌われるときは「君」とは新郎のことを指し、すなわち新郎の長寿と所帯の安息を祝い祈願する歌として用いられた[要出典]。この時代の薩摩琵琶の歌のひとつである『蓬莱山』に現在知られるものと同じ歌詞のものが見られ、よって現在の「君が代」は、明治期に薩摩人がここから採ったものとする説が有力である[3][4](次節も参照)。
因みに、文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集 初編』(明治21年(1881年)発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、2番も存在する。作曲は『小学唱歌集 初編』には「英国古代の大家ウェブの古歌」と記されているが、詳細は不明[4][8]。
後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している[要出典]。(後の項で詳述する)
明治2年(1869年)に設立された薩摩藩軍楽隊の隊員に対し、イギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を当時薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け、大山の愛唱歌より歌詞が採用された[3][8](前節も参照)。当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている[要出典]。
ただし、この話には異論がある。佐佐木信綱が記した『竹柏漫筆』によると明治天皇が関西へ行幸する際、フランス軍から天皇行幸に際して演奏すべき日本の国歌を教えてほしいという申し出が日本海軍へあった。そのため、当初、海軍兵学校へ出仕していた蘭学者である近藤真琴へ歌詞を書かせたが、海軍内で異論があり、海軍海補であった川村純義が郷里で祝言歌として馴染みのあった歌詞を採用したというものである。ただし、この説は明治当初に海軍が陸軍に対抗して自ら国歌の必要性を理解した上で発起したということを知らしめるために利用されていた節があり、現在の国歌研究においては「大山発案説」が事実であると見られている[要出典]。
当初フェントンによって作曲がなされたが、洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、明治9年に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終え帰国。その後明治13年(1880年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた[3][4][8]。
同年10月25日に試演した翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施工され、国歌としての「君が代」が改訂。11月3日の天長節にて初めて公に披露された[4][8]。
その後の明治26年8月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示[4][9]。また大正3年に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている[4]。以来、『君が代』は事実上の国歌として用いられてきた。
明治36年(1903年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は一等を受賞した[10]。
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大山らが登場させて後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(大日本帝国憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。しかし、戦後「国民主権」を定めた日本国憲法が成立すると、君が代の歌詞について天皇を中心とした日本の国柄を讃えたものとも解釈できることから(例えば、ベン・アミー・シロニーは、『君が代』皇統の永続性(万世一系)がテーマであり[11]、世界で最も短い国歌が世界で最も長命な王朝を称えることになった[12]と解釈している)、一部の国民から、国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。
政府の公式見解は、国家国旗法案が提出された際の1999年6月11日段階では、「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した[13]。
内閣府政府広報室の世論調査により、君が代を国歌とすることについて大部分の国民に受け入れられていることが明らかとなっている[14]。ただし、君が代の歌詞への反対意見や、教育現場での君が代斉唱反対運動は現在でも続き、賛否両論が対立している。
肯定的立場からは、事実上の国歌として歌われてきた明治以来の伝統を重視するリベラル寄りの意見もあれば、政治的背景とは無関係に日本的な曲であって国歌に最もふさわしいとする意見、国民は愛国心を持つべきであるから『君が代』を歌うことでその意識を高めなければならないとする主張や、天皇への忠誠心を涵養する目的をはっきり表明する尊王的な意見もある。
反対の立場からは、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強く(君=天皇)、軍国主義を象徴しており、君主制ではない日本にはふさわしくないとする意見がある。これに対して立憲君主制の国歌(たとえばイギリスの『女王陛下万歳』など。)と比較しても極端な天皇賛美の意味はなく、天皇象徴制の国歌ではごく普通の国歌だと考える意見もある。また、軍国主義的だという点から見ても、古い軍歌であるラ・マルセイエーズを国歌としているフランスを始めとして、過激な軍歌調或いは軍歌そのものの国歌を持っている国は多く、君が代が特別軍国主義を象徴するものではないとする意見もある。
また、小さな石が大きな岩になるという内容が非科学的であるという批判も一部にある。これに対して細石(さざれ石の項目を参照)についての詳細など、先に述べた歌詞の正確な内容がほとんど知られていない事による誤解が広まっている。小さな砂粒が大きな石になる例には、細石やストロマトライトなどが知られており、またチャート(SiO2)や石灰質岩により他の岩石破砕物を固結する例もよく見られることである。堆積岩、水成岩である砂岩や礫岩などは、砂の粒子が大きな岩体に固結する仕組みとも言える。これらは必ずしも近代的な知識ではなく、少なくとも部分的には古くから知られていたことが「さざれ石」の名からわかる。もっとも、それら「科学的反証」とは別に、そもそもこのような古典楽曲に科学的根拠を求める必要性があるのかという意見や、国歌とはいえ「詩」という文学的、比喩的表現の中に厳密な「科学性」を求めること自体がナンセンスであるともいえる。そもそも、「起こらないことが起こるまで」とは「永遠に」を意味するありふれた修辞であり、「巌となりて」がありえないとしても文学表現としては成立している。
他の反対意見には、メロディが稚拙で、盛り上がりがなく歌いづらいなどといった純粋に音楽的点を取り上げたものがある。[要出典]
君が代の教育現場での扱いについては議論になることが多いテーマである。
平成8年(1996年)頃から、教育現場において、当時の文部省の指導で、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉唱の通達が強化される。日本教職員組合などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する日教組教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。これを一つのきっかけとして『国旗及び国歌に関する法律』が成立、政府は国旗国歌の強制にはならないとしたが、日教組側は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いてきた。しかし近年、国民の大多数に受け入れられている現実から、日教組の姿勢も軟化し入学式や卒業式での国旗掲揚国歌斉唱の実施率は高まっている。憲法が保障する思想・良心の自由に反するという考え方自体がイデオロギーであるという認識もある。(君が代に対する意見対立について詳しくは、国旗及び国歌に関する法律を参照)。
国際競技大会でスポーツ選手の応援として自発的に『君が代』が歌われる光景については、強制していない面で問題視しない意見があり、また各国の国旗掲揚、国歌斉唱が脱帽起立のうえ厳粛におこなわれることを根拠として教育現場での日の丸・君が代への否定的対応および拒否を推奨するかのような日教組教育を国際的に非常識なものと批判する主張がある[要出典]。
1951年9月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が成立し、正式に日本が独立国に復帰した際以来、NHKのラジオ放送で連日放送終了後にオーケストラによる『君が代』の演奏が始まった。テレビでは、NHKが開局した1953年2月の時点ではなかったが、1953年9月からやはり放送終了時に演奏されるようになった。
しかし近年になりNHKが24時間放送を積極的に行うようになったため、現在は毎日演奏しているのはラジオ第2放送の終了時(日・月曜、並びに集中メンテナンスの実施日は24時、火曜日は25時35分(水曜未明1:35)、他は25時40分(未明1:40))のみである。あとは総合テレビの減力放送・放送休止明け(主として月曜早朝 歌詞がテロップ表示される)と、教育テレビで放送休止前後(毎月第2・4・5週の日曜深夜の放送終了時とそれが明けた月曜5時前)で流れる程度となった。
また民放のニッポン放送でも以前は毎日演奏(ジャンクション)を放送していたが、1998年4月より毎週月曜日の放送開始時と土曜日の午前5時前に限って放送している。また、以前はAFNでも毎日午前0時のニュース明けに演奏されていた。
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