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| やしきたかじん | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生名 | 家鋪隆仁 |
| 別名 | じんちゃん、たかじん |
| 出生 | 1949年10月5日 |
| 血液型 | O型 |
| 学歴 | 龍谷大学経済学部中退 |
| 出身地 | |
| ジャンル | ポップス |
| 職業 | シンガーソングライター タレント |
| 活動期間 | 1971年 - |
| レーベル | 京都レコード(1971年) キングベルウッド(1976年 - 1978年) キングレコード(1979年 - 1982年) ビクターインビテーション(1983年 - 1991年) ポリスターTAKAJINレーベル(1992年 - ) |
| 事務所 | P.I.S |
| 共同作業者 | 及川眠子 |
| 影響 | 藤山寛美、横山やすし、上岡龍太郎(タレントとして) |
| 表・話・編・歴 | |
やしき たかじん(1949年10月5日 - )は、日本の歌手、タレント、司会者。大阪市西成区出身。本名は家鋪 隆仁(読みは同じ)。主に関西ローカルのテレビ番組に出演している。愛称は「じんちゃん」「たかじん」など(ただし桃山学院高等学校で同級生だった堀内孝雄(軽音楽部部長)はたかじん(新聞部部長)のことを現在でも「やしき」と呼んでいる)。
個人事務所パブリック・インフォメーション・スタイル(P.I.S)の代表取締役を務めている。この場合における名義は漢字(本名)表記である。
大阪を盛り上げるために発足された民間団体「OSAKAあかるクラブ」のキャプテン。
目次 |
四人兄弟の次男として生まれる。
たかじんという名前は、本名「隆仁」を命名する際、寺院に依頼されたものからきている。そのときの名前が「隆仁(たかひと)」であったのだが、極右思想の父・権三郎が、「天皇陛下の『仁(ひと)』を使うとは何事だ!あの生臭坊主が!!」と激怒し(避諱)、後先考えずに「仁」の読みを「ひと」から「じん」に変え、「隆仁(たかじん)」と命名した事による。
「家鋪」は殆ど見かけない苗字であり、また名前の「隆仁」の読み方は「たかひと」が多い。その為か、「かしきたかひと」「いえしきたかひと」と思う人が多数。たかじん本人は風邪を引いた時に病院に通い、待合室で看護師に「かしきさん」「いえしきさん」「いえほさん」「やっほーさん」「かほさん」「いえほこさん」などと言い間違われ、看護師に激怒した事がある(「たかじん胸いっぱい」でのコメント)。
なお2006年4月に、持病の腰痛(ヘルニア)治療のためレーザー手術を行ない、さらに歯の治療や喉のポリープの治療も行なった(表面を削った上で抗菌パネルを張る事でワイン焼けやヤニで歯が汚れないようにし、奥歯にインプラントを入れた)。又、片目に白内障を患っており、手術を行った事を2006年9月10日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で、本人が明らかにしている(収録2日前の9月6日に手術したと述べている)。術後はスタジオが明るくて爽快と述べた。また、2007年11月には右目のみレーシックの手術を受け、翌月には左目外斜視の矯正手術を受けた。本人曰く「60歳迄に腹以外の肉体改造をする」とのこと。なお、日々の不摂生を補うための点滴にも定期的に通っている。
たかじんはその破天荒な芸能生活とは裏腹に、私生活を表にほとんど出さない。父の権三郎については(長期間絶縁状態にあったせいもあるが)極右思想の持ち主であったこと以外は一切公表していない。父の職業などについては語りたくないと発言している。1987年2月23日付の朝日新聞のインタビューでは日新ステンレス(本社・大阪市、家鋪秀王社長、資本金5000万円、従業員約80人。いずれも倒産時)の社長で、父親と実兄が会社を経営していた事を明かしているが、同じく朝日新聞によると、その後日新ステンレスは自己破産している(負債総額は約105億円)。だが、高校時代に父の財布から金を盗もうとしたのがばれた時、顔の形が変わるほど殴られてしまい、それで盗みは悪い事だと自覚したという一面もある(そこまで言って委員会内での発言)。兄に関しては学校の校長をしていることも明かしている。
また母についても、言及はかなり少ないが、憎んでいるという[1]。その一方で、母親と顔がそっくりといい[2]、「小学校のころ友達に『同じ顔の人が二人いると思ったらたかじん君とお母さんだった』と言われた」、「シヤチハタ親子(はんこで押したようにそっくりという意味)」などとも発言している。
過去に3度離婚しており、20代前半で別れた一人目の妻との間に一女がいる。 本人は「1人目も2人目も、風呂屋に行ったまま帰ってけぇへんねん!!」と、関西では使い古されたギャグで発表していたが、3人目は「離婚届け送ってきよった」と委員会で発言している。ただし、一人目の婦人とは死別である。
少年時代はリトルリーグのジュニアホークスに所属していた。
桃山学院高等学校在学中は新聞部に所属。朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選も果たしている。高校時代、生まれて初めて作曲した『コーヒーインタイム』が、NHK『あなたのメロディー』に採用され、ザ・スパイダースをバックに歌手の奥村チヨが歌った。桃山学院高校卒業後上記の通り新聞記者を志望していたため早稲田大学を志すも失敗し、桃山学院大学経済学部に内部進学するが、新聞記者を志した際「NHK嫌い(後述)を克服すべきでない」と考え、このことで父の権三郎と対立し勘当されると、同大学を中退し京都市に移り住む。
その後、龍谷大学経済学部へ入学するも中退。同大学在学中に歌手を目指し、京都祇園のクラブでギターとピアノの弾き語りとして歌い始め、自身の作曲活動も行なうようになる。当時たかじんの曲の作詞は、高校時代からの友人である荒木十章が手掛けていた。この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には生卵・ママレモン・タバスコ等をぶっかけたり、2階から放り出したりして暴れていたため、次々にクビになったという。
1971年に京都レコード(現在はTBS系の日音に版権を売却し音楽事業から撤退)から『娼婦和子』でレコードデビューするが、刺激的かつ退廃的、「現在の日本国において娼婦などという職業は存在しない」との理由で程なく発売禁止、廃盤となる。
1973年には、京都文化芸術会館で初のコンサートを開催。その後1976年に、キングベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入る。
1977年に宝塚史上初のリサイタル『私の肖像画』を鳳蘭がやるということで、宝塚が行った際の「作曲部門担当」の選考で、当時宝塚の演出家であった草野旦が、たかじんのデビュー曲『ゆめいらんかね』を聴きその歌唱力と作曲センスを評価。白羽の矢が立ち、宝塚大劇場でも共演。男性として史上初めて宝塚歌劇の舞台に立ち、宝塚の舞台に立った唯一の男性となる。この時、宝塚に楽曲5曲(『うわさ』『ゴロ寝』『ゆめいらんかね』『ひょっとしたらのお話』『ラスト・ショー』)を提供、その内の1曲『ラスト・ショー』は自身が歌ってレコード(アルバム:『プロフィール』の10曲目)も出している。なお、1993年には宝塚歌劇・星組公演『パパラギ』で『心はいつも』を提供し、これもたかじん本人が歌っている(アルバム『MOOD-夢見る男のために-』の3曲目)。
さらに同年、中村敦夫の推薦で『新・木枯し紋次郎』の主題歌『焼けた道』(作詞:中村敦夫 作曲:猪俣公章)を歌う。この時、旅人役でゲスト出演するも、散々な内容でノイローゼとなり自殺寸前にまで追い込まれたという。後に本人は「ガンダムの『砂の十字架』(後述)と同等で「生涯最大の汚点」と語っている。またこの時の経験がトラウマとなり、その後ドラマ出演や芝居の依頼は一切拒否するようになる(自身が出演の番組(冠番組・ゲスト問わず)でこれを流すことはタブーであり、冠番組で流せば番組をその日をもって終了させると公言している。但し『新・木枯し紋次郎』単独での地方局等での再放送は拒んでいない)。これを機に猪俣とは親しくなり、CMソング「サントリーレッド」「桃屋の塩辛」などを歌うようになる。
1978年、一度は歌手を辞めようと決意するが、周囲の勧めで渋々フェスティバルホールで行われた「大阪大衆音楽祭」に出場し、『ながばなし』というタイトル通り10分ほどある長い歌でグランプリを獲得(本人曰く、1分1秒でも長くフェスティバルホールの舞台に立っていたくて長い曲を作ったという)。これがその後の歌手活動を続けていくきっかけとなる。
1980年にファンクラブ「CONCORDE」を設立(2004年度末に本人の意向により解散)。作詞家来生えつこと出会い、シングル・アルバム『明日になれば』をリリース。活動拠点を京都祇園から東京下北沢に移す。当時、レギュラー番組であった文化放送ラジオ『セイ!ヤング』の構成作家で作詞家デビュー前の秋元康と出会い親密な関係になる。当初は相談も兼ねて歌詞を持ってきた秋元に対し「全然アカン、話にならん。持って帰れ」と散々こき下ろしたが、その後に秋元作詞の曲は多数ヒットすることになった(この時の歌詞について、たかじんは「詩じゃなくて作文、文章であって歌詞とは呼べない」と評していた。一方、秋元は「たかじんさんは独特のこだわりがあるから、たかじんさんを納得させる歌詞を書くのは至難の業」と言っている)。のちに、たかじんは「あの時、なんぼかもろとったらよかったわ」と、ネタとして度々話している。この当時大阪のほかに東京・仙台・名古屋などにもレギュラー番組を持っており、雑誌「明星」に日本一移動距離の長い芸能人として取り上げられていた。
前述の秋元のコメントの通りたかじんの歌詞へのこだわりが強く、かつて多くたかじんの曲の作詞・作曲を手がけた鹿紋太郎が新曲作りに取り組む際には、鹿がたかじんの自宅に泊り込んで半月程度の合宿をおこなったという。代表的な大阪の曲として知られている『悲しい色やね』の作詞家である康珍化から持ち込まれた『心斎橋に星が降る』に対して、「心斎橋はアーケードあるから星降らん!!(康自身は静岡の出身で大阪のことは詳しくない)」と自身の曲として歌うことを断っている。そのため、この曲は大上留利子の持ち歌となって世に出てしまい前途の秋元とのエピソードと同じ状況に至ってしまった。このことから、作家泣かせとして業界で有名である。
1981年には谷村新司が作詞作曲し、たかじんが歌ったアニメ映画『機動戦士ガンダム』(劇場版3部作の第1作)の主題歌『砂の十字架』が13万枚[3]のヒットとなるが、本人にとっては生涯最大の汚点だという。これには事情があり、当時たかじんを担当していたディレクターがキングレコードの部長に涙ながらに土下座し、鳴かず飛ばずだったたかじんにレコードを出させて下さいと直訴。その結果キングレコードは条件として、たかじんにガンダムの主題歌を歌うように指示、たかじんも歌詞に「ガンダム」という固有名詞がないことを条件に、(土下座したディレクターのこともあり)渋々承諾する。しかし、歌詞が気に入らなかったことと、ジャケットに自分の写真でなく、(同作品の主人公の)「アムロ・レイ」のイラストが描かれていたことにたかじんがクレームをつけて発売は延期となるが、結局そのまま発売されてしまう。こうして無理矢理歌わされた曲がヒットしたため、「これまた人生の汚点だ」として番組などで話していた。
1982年に大阪駅前第二ビルの一角にマネージャーであった野田幸嗣とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。その後、1983年にビクターに移籍し『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『あんた』が上昇気流のきっかけとなる。1986年には『やっぱ好きやねん』が関西で注目を集めヒット。さらにこれが「大阪の歌手」として人気を得るきっかけとなり、1987年には『ICHIZU』が関西で大ヒットした。その後も、1989年には『大阪恋物語』、翌年には『なめとんか』がヒット、大阪色を前面に出したバラードシンガーとして根付いてゆくことになる(『やっぱ好きやねん』をきっかけに若き作家鹿紋太郎と出会って以降、ビクター在籍中二人三脚で楽曲を製作し現在の歌い手たかじんのスタイルを築くこととなった)。本人いわく「歌手一本で食えるようになるまで二十年はかかった。」という。
この頃には、関西でのたかじんのコンサート・ディナーショーなどのチケットは入手困難となり、常に前売り即完売のプラチナチケットとなっていた。
1992年にポリスターに移籍し『泣いてもいいか』をリリース、1993年には『東京』が約60万枚[3]の自己最高のヒットとなり、翌1994年全日本有線放送大賞「特別賞」「読売テレビ最優秀賞」を受賞する。なおポリスター移籍後、多くの楽曲の作詞を及川眠子(和歌山出身)が担当している。
1999年10月5日にフェスティバルホールで行われた50歳記念のバースディコンサートで一度休業している。2001年12月12日岡山国際ホテルで行われたディナーショーで歌手活動を再開。2002年8月31日にフェスティバルホールで行われた「復活スペシャルコンサート」を行った際、歌い終わったあとに「やっぱ山口百恵のようにはいかんな、またマイク握っとる」と発言し、ファンは活動再開を喜んだ。なお2002年12月30日に行われた帝国ホテル大阪のディナーショーを最後に、2003年以降一切のコンサート活動を休止している。また、CDも2003年10月の『冬のソナタ』のカヴァー曲で2004年にNHKで放送された冬のソナタ(日本語吹き替え版)の挿入歌・主題歌となる『My memory/最初から今まで』以来シングルリリースしていない。
2003年『やっぱ好きやねん』がバックに流れ川藤幸三がCM出演した、『大阪ソウルバラード』(全15曲のうち5曲がたかじんの歌が収録されている『やっぱ好きやねん』『生まれる前から好きやった』『なめとんか』『大阪恋物語』『あんた』)が阪神タイガースの18年ぶりの優勝に猛進しているのも相まって15万枚の売り上げを記録。
2007年6月9日に行なわれたMBSアナウンサー八木早希の結婚式で「My Memory」「My Way」を披露した(ちなみにこの結婚披露宴はたかじんがプロデュースした)。
2007年11月16日にやしきたかじん携帯公式HP「発禁!?たかじん新聞」の「熱唱!!やしきたかじん」というコーナーで、本格的な歌手活動に向けてのハワイでのトレーニングの模様を収めた映像を公開するという形で歌手活動を再開した(歌唱した曲目は「見えない糸」「東京」「ICHIZU」「もしも夢が叶うならば」「Fly me to the moon」「やっぱ好きやねん」。またダイジェストで「エゴイズム」「なめとんか」も歌っている)。
2008年5月に公式ホームページをリニューアルし、プラチナムメンバーを対象に「熱唱!!やしきたかじん」をはじめとするたかじんのプライベートやたかじんのオススメ通販情報などを動画で提供するサービスやチケットの優先予約などのサービスを開始する(「熱唱!!やしきたかじん」で歌唱した曲目は「見えない糸」「東京」「ICHIZU」「もしも夢が叶うならば」「Fly me to the moon」「やっぱ好きやねん」「大阪恋物語」「生まれる前から好きやった」「サン・トワ・マミー」「雪が降る」「恋」「ついてくよ」)。
2008年8月29日に読売テレビの開局50周年記念として大阪城ホールで行なわれたやしきたかじん自らプロデュースする音楽イベントkoi-conにてステージで6年ぶりに歌った。「惚れた弱み」「未練〜STILL〜」「My memory」「大阪恋物語」「東京」「夢見る男のために」「やっぱ好きやねん」「明日になれば」を歌った。(「東京」「やっぱ好きやねん」は松山千春とのデュエット)このイベントの中で「もしかしたらこれ(koi-con)が最後(の舞台)かもしれない」という発言をしているが、同時に歌うかもしれないということをほのめかした。
2009年9月1日~10月26日にかけて7年ぶりに9カ所10公演(日程順に広島・神戸・福岡・高松・名古屋・大阪・東京・岡山・京都)のコンサートツアーを行うことを公式サイトにて正式に発表した。
たかじんのコンサートは演出や構成が一切なく、セットや照明も控えめであくまで歌としゃべくりを重視したシンプルなスタイルである。3時間前後の内、大半(約6割)がトークに費やされる。歌はかつては15曲前後、近年では12、3曲歌う。歌の間に3回から4回ほど2、30分程度(大ネタになれば4、50分)のトークがある。トークでオチをつけないと次の曲の演奏が始まらないのも特徴である(予想外のオチにバックバンドが慌てて演奏に入ることも少なくない)。観客からも「曲はレコード、CDで聞くからそれよりも話をして」と言われるという。それゆえほとんど歌えなかったこともあり、かつてコンサートやライブで歌ったのがたった2、3曲だけだったこともある(たとえば、ゲストでたかじん同様にコンサートの大半をトークに費やす円広志を迎えたときなどには、漫才に熱が入りすぎた(2時間近くやっていた)ため、たかじんが「緊急事態宣言」を行い、急遽バックバンドに目配せで当初予定していた曲数を大幅カットさせたため、スタッフは大慌てだったという)。
コンサートになると、極度の重圧から自律神経失調症や重度の胃腸炎やノイローゼになり、かつてコンサートでアンコールの緞帳が下りたとき意識を失い、生死をさまよったことがある。また、客席をまともに見るのが怖いため、ステージに立つときは必ずサングラスをかけている。トークのときにステージの端から端までウロウロするのはサービスや演出ではなく、精神的に落ち着かないからである。
コンサートのトーク時間が日本一長いことで有名だが、このようなスタイルになったのは、まだヒット曲も無く無名だったころどのようにすれば満員になるのか試行錯誤した結果であるという。
初期の「フライング・リバティー」<Pf/Key:土井淳(バンマス) G:近藤芳弘 B:奥田勝彦(後に細木隆広→小笹了水) Dr:五十川清(後に浅川ジュン)の4人構成で、後に、Key:十川知司→森俊之(後に鈴木賢) Sax/Flute:河田健(後にエレファント酒井)らが参加>に始まり、現在の「アンビエンス」<1994年春にファンクラブの募集でバンド名が決定した。正式には英語のambienceの発音記号がバンド名。Pf/Key:土井淳(バンマス) Key:鈴木賢 G:近藤芳弘 B:小笹了水(2002年代役で福栄宏之が参加) Dr:浅川ジュン Sax/Flute:小梶博司(2001年から横山貴生)の6人に1995年秋〜1999年に当時たかじんの弟子であった佐々木清次Ag/Choが参加。>また、かつては、尾崎亜美(ピアノ)や河島英五(ギター)らが参加していた。
普段のしゃべる時のだみ声の地声と、歌うときの高く澄んだ甘い歌声とのギャップがあまりにも違うため関西以外ではたかじんが歌手であることを疑われることが頻繁にあり、関西では「スズムシの声を持ったゴキブリ」と呼ばれていた。上岡龍太郎はたかじんを評して「普段のしゃべり声は芸人の声、歌っているときの声は歌手の声」、島田紳助は「愛を歌うヤクザ」と言った。
歌手でありながら、1986年に日本放送演芸大賞「ホープ賞」、1993年に上方お笑い大賞「審査員特別賞」(本来なら大賞であったのだが、たかじん自身が「歌手が大賞を受賞するのは芸人に対してシャレにならない」と辞退)を受賞。お笑いの賞と歌の賞と両方獲得しているのはたかじんただ一人である。
一時期桂雀々や2代目桂春蝶や『MBSヤングタウン』で共演した桂三枝のもとに付いたり、さまざまな名だたる上方芸人と交流を深め(特に雀々とは北新地の居酒屋「猫八」で出会って以来の付き合いで、かつては天満のマンションに一緒に住んでいた)、しゃべりや遊びの勉強をしていた事がある(祇園の弾き語り時代には、6代目笑福亭松鶴や藤山寛美にお茶屋遊びを教えられ、また、3代目桂米朝には大阪宗右衛門町の南地大和屋で遊びの基本を学んだ)。そのため、芸人以上に芸人としての意識が強いことから、若手に対して厳しい一面もあり、飲みに行く際には喫煙・飲酒をさせない程である。タカアンドトシ、博多華丸・大吉、サンドウィッチマン、波田陽区、はなわ、ヒロシ、世界のナベアツなどに太鼓判を押し、彼らを気に入っている模様。
1994年にアサヒビールの関西限定ビール「生一丁」のCMに出演。「あけまっせ」「これやがな」の台詞がうけ、同製品が爆発的なヒットとなる。
さらに1985年ABCラジオの昼ワイド番組『聞けば効くほどやしきたかじん』で初めて帯番組を務める。この時、金曜日に円広志と行なっていた大阪駅ビルのサテライトスタジオ「ABCエキスタ」での公開生放送で注目を浴びる。「音曲漫才(ちゃうのんブルース)」や生ライヴ、さらにはCMを無視した1時間以上に亘る内輪話が大人気となり、観客がスタジオに殺到。その人気ぶりを写真週刊誌フライデーが取材。「昼休みにサラリーマンがわざわざ営業車に乗ってまで聴くほどのお化け番組」と紹介された。朝日放送ではラジオ・テレビの他のレギュラー番組にも進出。『聞けば-』は1987年10月に終了するが、その直後にラジオ『サタデーたかじん 〜午後はイッキに〜』のパーソナリティー、さらに夕方のテレビ報道番組『ニュース・ウェーブ』のコメンテーターを務める。
放送禁止用語や放送局の出入り禁止や、名誉毀損(後述)も恐れないストレートな発言(これはたかじんの友人も容赦なく批判する)で、テレビ・ラジオのパーソナリティーとしても関西では不動の地位を誇り、すべてのレギュラー番組が高視聴率を誇ることから「浪速(関西)の視聴率男」と呼ばれている。 本人は自著の中で「僕を視聴率男と呼ばないで」と記しているが、これまでに数多くの番組をヒットさせ、現在もそれは変わらない。
よみうりテレビ製作の「たかじんnoばぁ〜」でも、編集(「ガオー」という効果音)無しでは放送できないような発言、暴言を繰り返したが、そのトークが評判を呼んでキー局の日本テレビでも放送されるようになる。また、たかじんがカラオケやギターの弾き語りで歌うこともあった。この「ガオー」がこの番組の名物となる。放送時間が深夜12〜1時台を過ぎているにもかかわらず、最高視聴率が25%を超え(関西地区)、よみうりテレビ史上深夜番組の最高視聴率記録を更新する事となった。 なおこの番組中に泥酔のため、たかじんの東京嫌い(後述)や、司会におけるスタイルを批判したゲストの立川談志に灰皿を投げつけ「気に入らんかったら帰れ」とスタジオから追い出し、犬猿の仲に発展したが、トミーズ雅に「放送できない」と止められた。また、内田裕也と安岡力也がゲストに来た際、内田が番組のお約束でもあったコントにも参加せず、番組途中で帰ったのにまったく怒らず、その後何事も無かったかのように力也とトークを続ける懐の深さもみせた。ただし内田が、たかじんのブラックリスト入りをしたのは言うまでもない。
1992年10月より、東京の放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組を持つも、東京に嫌気が差し半年後に全て降板。特に後述するテレビ朝日「M10」における味の素事件は、テレビ関係者、視聴者ともにたかじんの行動に唖然としたことは言うまでも無い。また、この年は後述する「晴れ時々たかじん」における朝日放送でも局長の失言が原因で、結果としてたかじんは東西のテレビ朝日の系列局で激昂したことにより、テレビ朝日は勿論、東京のテレビ局及び朝日放送とは絶縁し、出演することがほとんどなくなってしまった。これ以降は、歌手活動と並行しながら関西ローカルで数本のレギュラーを持つようになる。とはいえ、1994年から2004年頃までは、親交のある明石家さんまや島田紳助などが司会の東京収録の番組にも義理でゲスト出演していた(『恋のから騒ぎ』、『開運!なんでも鑑定団』、『料理バンザイ!』など)が、やはり、東京キー局とそりが合わずトラブルを起こした。結果的に、1998年頃から2004年に『さんまのまんま』と『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜』にゲスト出演するまで、東京収録の番組には全く出演しなくなっていた。また1994年10月から2年半の間は大阪発全国ネット番組『たかじん・ナオコのシャベタリーノ』(毎日放送)の司会を務めた。
1994年から自身が司会を務める『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)が開始。さらに1998年には『たかじんONE MAN』(毎日放送)が始まる。この2つはテレビ番組や芸能人など主に業界に関する企画が中心で、番組改編期になると、新番組の平均視聴率を予想するのが恒例となっている。また、この視聴率予想の的中率が異常とも言える程の高さを誇っている。これも「晴れ時々たかじん」の司会就任の頃、自宅に10台前後のビデオデッキ(最近では1テラバイトのHDDデッキを6台購入したと『たかじんのそこまで言って委員会』で述べている)を買い求めて、テレビ番組の動向をたとえ本人が嫌いな番組であってもチェック(以前はチャンネルごとに録画していたが現在はジャンルごとに録画している)していて以来続いている、彼のネタのひとつである。なおアニメに関しては早送りしているとたかじん本人が『たかじんONEMAN』内で言っている。
これまで芸能関連の企画が多かったが、2002年、特別番組『たかじんのそこまで言って委員会』で政治・経済などの時事問題をテーマにした番組を放送。2003年にはレギュラー化される。そして2004年には『ムハハnoたかじん』が開始、5年間守っていた「レギュラー2本」が倍増した。理由について本人は「老後のため」とギャグでかわしている。
大橋巨泉の様にまだブレイク前のタレントと芸人の才能を見抜く眼にすぐれており、ABCのアナウンサーだった宮根誠司が多彩な才能を秘めていることを見抜き、公私共に親しいABCの社長(当時)の西村嘉郎に直々に談判し、フリーアナウンサーに転身させた。 また、コンビニの雑誌の表紙を飾っていた、駆け出し当時(グラビアアイドルとして)のほしのあきを目に留め、後日即座に自身の番組にブッキング。その後ほしのが全国区でブレイクしたため、改めてゲストにブッキングすることが困難になってしまった。
1992年、たかじんがテレビ朝日の深夜番組『M10』(マグニチュードテン)に出演したときに、番組エンディングのいわゆる「料理コーナー」で、スタジオに「味の素がない」という理由でプロデューサー等のスタッフや助手を務めていた服部栄養専門学校の生徒を「どこじゃー!!」と連呼しながら、自暴自棄の状態で殴り、スタジオのセットを次々に破壊する事件があった。その直後、共演のトミーズ雅が「味の素を入れたとしましょう」と、軌道修正を図るコメントをしたところさらに怒り、最終的には「こんな腐った番組辞めたらぁ」と生本番中に帰った(後日、彼は別の番組で『ファックスで再三打ち合わせしたにもかかわらず、味の素を持って来なかったことに腹を立てた』と話している)。しかし、放送中に「味の素ないのか!」と連呼したため、味の素本社から1000本の味の素が送られ、スタジオのセットやたかじんの楽屋の至るところに置かれた。
同時に、彼の東京嫌いが決定的なものとなり、基本的にキー局や一部の地方局製作の番組に出演することは無くなった。そのため、現在でも『たかじんのそこまで言って委員会』や『たかじん胸いっぱい』などの冠番組の東京キー局や一部の地方局からの全国ネットの案件を門前払いし、徹底拒否している(東京MXTVを除く関東の独立UHF局では放送を認めている)。
『たかじんTV非常事態宣言』の企画で味の素大阪支社を訪れた際、味の素の会社内でもこの事件が伝説として語り継がれていることを知る。
この事件後たかじんは『M10』を降板する。
東京嫌いのため、滅多なことがない限り東京では仕事をしていない。2005年以降、全国ネットの番組での出演は3〜4年に1回あるかないかである(さらに関西発の番組であることが多い)。このため、関東在住(特に茨城県・千葉県)のファンや視聴者からは、たかじんに年に一度でいいから全国ネット番組にゲスト出演してほしいという声も上がっている。加えて昨今は生放送番組にはあまり出演しないが(『すてきな出逢い いい朝8時』2001年9月22日放送のゲスト出演は例外)、『ムハハnoたかじん』はニュース性の高い番組のため、一時期生放送を行っていた時期があり、2005年11月20日には『やしきたかじんが宮崎でタイガー・ウッズに生で密着! たかじんINダンロップフェニックス』(『ダンロップフェニックストーナメント』(毎日放送)の関西ローカル・放送時間10:00〜11:24)では特別ゲストでリポーターとして出演した。最近では『たかじんのそこまで言って委員会』が熊本地区で20%超の高視聴率を獲得したことを記念して、辛坊治郎(読売テレビ解説委員)と共に2007年7月9日にくまもと県民テレビのローカルワイド番組『テレビタミン』に生出演し、2008年4月10日放送の『なまみつ』に桂ざこばとともに番組中に乱入して出演した。
かつて『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)の全国ネット化をキー局のフジテレビから打診され、また最近では『たかじんのそこまで言って委員会』(ytv)もキー局の日テレからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたが、たかじんが「関東には絶対流さない」「関東で放送されるくらいなら辞退する」(『たかじんのそこまで言って委員会』の宮崎哲弥も同様に埼玉・千葉・神奈川では辞めないにしても、東京で放送したら辞めると宣言している)と言い、在京キー局(関東)ではネットされていない(全国ネットではない)現状であるが、『たかじん胸いっぱい』に関しては、2009年現在では神奈川県のtvk、埼玉県のテレ玉、群馬県の群馬テレビといった独立UHF局でネットされ(かつてはとちぎテレビも)、東京の一部の視聴者が見る可能性はあるものの、そこまでは反対していないようである。なお東京都のUHF局のTOKYO MXも「東京唯一の独立UHF局だけれども東京のテレビ局だから」だけでキー局扱いにし、毛嫌いしている為(ただしその他の在京キー局に比べて、それ程には毛嫌ってはない)、UHF局のTOKYO MXのみ、たかじんの出演番組のネット放送は開局以来全くされていない。ちなみにチバテレでは『たかじんnoばぁ〜』の復活特番第1弾でネットの実績がある。
なお、東京の番組に出演しないのは前述の理由のほか、1992年10月より半年間、たかじんが東京の放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組(『テレビ近未来研究所』・『M10』(いずれもテレビ番組)・『そこまで言うか! 熱血!正義の60分』(ラジオ番組))を持った際の番組スタッフとの確執が決定的な理由とされる(それ以前にも東京のテレビに出演した際に、利権やしがらみのために制約が多いことや、すぐ掌をかえす体質や極端に横柄な態度に激怒し、暴力沙汰を起こし収録途中で幾度も帰っている)。この時たかじんは、自分のやり方を否定する東京キー局や地方局のルールが気に入らず、プロデューサーやディレクターを殴り、恫喝し、時には土下座させ、ついには生本番中に帰るなどのトラブルを起こした。
東京キー局や地方局でも普段通り機関銃の如くしゃべっているが、放送できない内容が多すぎるため、オンエアではほとんどカットされている。このことについてたかじんは常に不満を述べており、時には収録中にクレームをつけトラブルを起こすこともある。関西(西日本)と関東(東日本)でたかじんの印象が違うのはこのためである。このような事から、在阪局制作のレギュラー番組でも基本的にたかじんは東京キー局や地方局へのネットを断っている。実際、1998年3月の『たかじんnoどォ!』(ytv)の終了以降、たかじんのレギュラー番組は関東地区では独立UHF局を除き放送されていない。
あまりのストレスからノイローゼになり、東京のラジオの生放送中に倒れて救急車で運ばれるということもあった。たかじんの出演する番組は1998年以降、静岡県以東の東日本の放送局では放送されない時期もあったが、現在では、東北の一部や関東圏以外での放送は増えている。特に広島県と中京圏では現在出演中の全番組を放送していることもあり、関東以外での知名度は上がっている。関東地方でのマスコミ露出が少なかった1999年頃には一部で死亡説が流れた事もある。現在でも、普段のレギュラー番組で、47都道府県関係なく、放送禁止用語が飛び交う内容で身内を含んで容赦なく批判している。大阪色を前面に出し、毒舌を連発するたかじんのやり方が東京の人間には敬遠されるためか、たかじん自身にとって東京との相性は水と油である。特にここ近年は以前より東京嫌いがひどくなってきているようだが、2005年1月1日付朝日新聞東京本社版別刷り特集にインタビューが掲載されている。現在でも在京キー局のテレビ番組を批判し、出演を徹底的に拒み続ける中で、たかじん自身は「くるダス」(アスコム)のインタビューでテレビ東京を応援しており、『ペット大集合!ポチたま』と『新春ワイド時代劇』(両番組ともテレビ東京)に太鼓判を押している。
たかじんは嫌いな人物のブラックリストをもっており、たかじんの逆鱗にふれた人物は二度とキャスティングされなくなる。その傾向は、たかじんを批判したり、大阪を批判したり、大阪以外の地域文化を自慢した人物等となる(但し、必ずとは限らない)。在京局(ラジオ局も含む)のアナウンサーや、NHKのアナウンサーもフリーになった者を含め、全員が載っているとされている。このブラックリストが実在する事は、たかじん自身が何度も公表しており、リストの実物を冠番組内で見せた事もある。ただ、過去には『たかじんnoどォ!』ではみのもんた、『ムハハnoたかじん』では小倉智昭と普通にそれぞれ共演し、近年では有賀さつき、魚住りえ、鈴木史朗などの一部のフリーアナウンサーとは普通に共演している。
明確に言えば、ブラックリストの掲載人物はたかじんのレギュラー番組にキャスティングされなくなるだけであり、在京局の番組などでは共演する可能性も皆無ではない。例えば、たかじんと親交のある細木数子が司会のフジテレビの番組「幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜」にたかじんが出演した時、元日本テレビアナウンサーの徳光和夫と共演している。また、ブラックリスト掲載者でも、たかじんがキャスティングを希望すれば(断られる場合もあるが)その回に限っては共演するのも不可能ではないようである。
逆に上記の事から、たかじんが共演したいタレントから拒否されて、たかじん自身が後悔する面がある。それと同時に、たかじんが批判したタレントが自分のファンだと知り(例えば、桑田佳祐など)、たかじん自身がショックを受ける事もある。
在京キー局や(キー局の意向に追随する)一部地方局の首脳は当然ながらたかじんの態度を快く思っていない。代表的なのがフジテレビ会長の日枝久で『たかじん胸いっぱい』の人権侵害事件や『発掘!あるある大事典II』の捏造事件を庇いだてなく報じていたが、それ以上にたかじんは東京キー局や一部地方局の首脳を「きちがい」「アホの頂点」「東京を嫌って何が悪い。文句あるんやったらかかってこい!!」と非難している。とはいえ、『たかじんONE MAN』で「俺が嫌っている都道府県は東京都だけや」と、東京以外の首都圏の県を特に嫌っているわけではないようである。事実、通勤圏の周辺おいて、たかじんの番組がネットされている(群馬・神奈川・埼玉では「たかじんの胸いっぱい」が放送されており、「胸いっぱい」は千葉や栃木でも放送されていた時期があった)。
そしてこのようにほとんど関西でしか仕事をしていないため、関西以外での知名度はきわめて低い(たかじんの番組が放送されている東京以外の関東や、一部の地方の方がまだ高く、逆に東北や沖縄での知名度は東京以上に低い)。しかし関西では絶大で、在阪民放各局の首脳陣とも深いつながりがあり、自分の番組以外でもキャスティングや企画・編成にも関わる事がある。
歌手デビュー時のオーディションで、NHKへの悪口を連発した挙句に、NHK側のあまりに横柄な態度にたかじんが噛み付いたために不合格になったこと、NHK大阪放送局の『BK芸能チャンネル』でのなんらかの事件がありそれを皮切りに「役人・官僚体質」「中身のない番組を垂れ流して受信料を取る」「キチガイ集団」などの批判もあり、それゆえにNHKに対して異常なまでの憎悪を抱くことになる。実際、普段のレギュラー番組でも「腐ったヤクザな放送局」「アホの集まり」「さっさと潰れろ」「民営化しろ」「価値がない」などと非難したり、放送禁止用語を連発することも頻繁にある。東京キー局同様NHKのアナウンサーも前述のブラックリストに掲載させている。無論、現在、過去を問わず全員が掲載されているため、元NHKのアナウンサーとの共演もたかじんは一切拒絶している(但し、『ムハハnoたかじん』で共演した宮川俊二、大塚範一は例外)。
「紅白歌合戦」に関しては年末年始の特番で特大パネルを用いて徹底的に酷評するのは定番と化している(ただし最近は減少傾向に至っており、援護をするようなコメントに傾向している)。NHK側も「たかじんの出演が紅白のイメージに合わない」と、たかじんの紅白出場の可能性を完全否定している。
さらに、NHK大阪ホールのこけら落しの歌番組の出演依頼されるも「誰が糞NHKなんかに出るか」と即座に断った唯一の人物でもあり、それを自慢話にしている(但し、『プロジェクトX』に対しては太鼓判を押したほどである)。当然、NHK受信料も払っていない。
在阪局であっても朝日放送でレギュラー番組を持つことはない。これは『晴れ時々たかじん』の放送終了後の慰労パーティーにおいて(朝日新聞社から来た)局長の挨拶が「なぜこんな番組が視聴率を取るのかわからない」の一言で激怒したたかじんは、以後朝日放送での仕事は死ぬまでしないと決めたからである。これ以降、たかじんの冠番組内で朝日放送の話題になると「(朝日放送は)アホから順番に偉くなる放送局」など、放送禁止用語を交えて罵倒しているが、その後も特番には数回出演している(頻度は在京局と同じく数年に1回程度。現時点では2003年の「おやじと娘とたかじんとⅡ」が最後である。ABCがパート3の製作をたかじんに依頼したところ、「それならレギュラー番組に起用しろ!」と断ったというエピソードがあることから、たかじんはABCを在京局並に嫌っていると思われる)。
『晴れ時々たかじん』以前にも、ABCラジオの生放送中に「養命酒がなんで効くねん。マジで吐きそうになった」と発言した後日、たかじんは養命酒製造から始末書を書かされたり、 ついには局の警備員の対応の悪さに腹を立て、ラジオの生放送中に、たかじんが当時の副社長に「ここ(朝日)の警備員の教育はどうなってんねん、だからアホから順番に偉くなるんちゃうか」と発言し、副社長を激怒させた事があった。結果として副社長はたかじんに対して永久出入り禁止処分を下し、その後たかじんが「(朝日の事)ボロクソ言うたら」と発言し、副社長が徹底抗戦しようとしたが、当時の社長だった藤井が「そんなことしたらタレントがおらんようになる」と鶴の一声でお咎め無しとなった。
しかし、他の在阪民放局同様に朝日放送でもたかじんが持つ影響力は大きく、親交のある前社長で現・取締役相談役の西村嘉郎に直談判をし宮根誠司をフリーに転身させた。また、朝日放送の顧問を務める山内久司もたかじんの冠番組に出演している。元朝日放送アナウンサーで現在・技術局次長の林伸一郎とは龍谷大学放送部で同期であり、現在も親交深く2003年4月頃『たかじんONE MAN』のコーナー「対面ショー」で局の垣根を越えて久々に共演した。
たかじん本人は、製作畑の人間とは交流が深く、朝日新聞の天下り筋とはそりが合わないとも述べている。
たかじんは今までラジオ大阪でレギュラー番組を持った経験がなく、ゲスト出演もしたことがない。現時点でラジオ大阪でたかじんが出演したのは、代役として出演した『オールナイトニッポン』がニッポン放送のネット受けで放送されたのみである。ラジオ大阪を嫌っているわけではないようだが、たかじんはラジオ大阪の事を話すことは滅多にない。なお、『たかじん胸いっぱい』では、元OBCアナウンサーの中井雅之と共演している。
短気な性格で、自己主張や熱弁などがかなり激しい面から、ついには裁判沙汰・警察沙汰になるというケースも生じている。
この種のトラブルはラジオのパーソナリティーをやり始めていた頃から数多くあり、このような厳しい勧告を受け続けても、度々同じトラブルが繰り返されている。
| この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2008年5月に貼付されました。 |
現在、関西テレビ・読売テレビ以外のテレビ・ラジオ番組はレギュラーを持っていない。
自らが司会を務めるようになってから、『晴れ時々たかじん』以後は番組の打ち切りは放送局が決めるのではなく、自らが「辞める」と言って終了するとしている。現在は様々な事情が絡み合い、「辞めたくても辞められない」と発言している。また『そこまで言って委員会』は、三宅久之が亡くなった時点で番組終了と公言している。
| No. | 発売年月日 | 曲名 | CD・レコードのサイズ | レコード会社名 | 備考・曲が使用された番組名 |
| 1971年5月20日 | 娼婦和子/さよならの言葉 | EP | 京都レコード | 即日発売禁止 | |
| 1st | 1976年10月21日 | ゆめいらんかね/流れ者 | EP | キングベルウッド | デビューシングル |
| 2nd | 1977年7月21日 | 君はどこへ/ほんの昔 | EP | キングベルウッド | |
| 3rd | 1977年10月21日 | 焼けた道/けもの道 | EP | キングベルウッド | ドラマ「新・木枯らし紋次郎」主題歌 |
| 4th | 1978年12月5日 | ながばなし/近頃の人生 | EP | キングレコード | 大阪大衆音楽祭グランプリ受賞曲 |
| 5th | 1980年1月20日 | 明日になれば/今さら・・ | EP | キングレコード | |
| 6th | 1980年10月21日 | Walking on/明日になれば | EP | キングレコード | テレビ朝日「柳生あばれ旅」主題歌 |
| 7th | 1981年2月21日 | 砂の十字架/スターチルドレン | EP | キングレコード | 劇場版機動戦士ガンダム主題歌 2006年11月22日にオリジナルカラオケ付きで再発売 |
| 8th | 1981年6月5日 | かりそめのパートナー/スマイル・アゲイン | EP | キングレコード | |
| 9th | 1981年12月5日 | 横顔/ルームナンバー301 | EP | キングレコード | |
| 10th | 1982年5月21日 | 愛の時代に/さよならの落としもの | EP | キングレコード | 愛の時代に・CM「アリナミンC」イメージソング さよならの落としもの・NHKドラマ「大阪ドンキホーテ物語」主題歌 |
| 11th | 1983年11月5日 | ラヴ・イズ・オーヴァー/ハーバー・ライト | EP | ビクター音楽産業 | |
| 12th | 1984年5月21日 | あんた/愛したあとからメランコリー | EP | ビクター音楽産業 | |
| 13th | 1986年9月21日 | やっぱ好きやねん/Yume Irankane(Remix.Ver) | EP | ビクター音楽産業 | |
| 14th | 1987年8月1日 | ICHIZU/思い出オン・ザ・ロック | EP | ビクター音楽産業 | 当初、製造ミスでカセット版のB面には「やっぱ好きやねん」が収録された |
| 15th | 1988年3月21日 | 未練〜STILL〜/カウント・ダウン | EP・8cmCD | ビクター音楽産業 | このシングルで初めてビクター音楽産業は8cmCDシングルを導入する |
| 16th | 1988年11月1日 | 愛することを学ぶのに/順子 | EP・8cmCD | ビクター音楽産業 | |
| 17th | 1989年4月21日 | 大阪恋物語/ひとり覚え | EP | ビクター音楽産業 | 販促用 |
| 18th | 1990年11月21日 | なめとんか/晴れときどきTAKAJIN | 8cmCD | ビクター音楽産業 | 晴れときどきTAKAJIN・朝日放送「晴れ時々たかじん」オープニングテーマ曲 |
| 19th | 1992年4月25日 | 泣いてもいいか/いっぱいの酒 | 8cmCD | ポリスター | |
| 20th | 1993年3月25日 | 東京/夢の雫 | 8cmCD | ポリスター | 全日本有線放送大賞「読売テレビ最優秀賞」「特別賞」受賞曲 |
| 21st | 1993年6月25日 | さよならが言えるまで/見えない糸 | 8cmCD | ポリスター | 見えない糸・MBS骨髄移植啓発キャンペーン曲 |
| 22nd | 1994年3月25日 | 優しい女には毒がある/はぐれた背中 | 8cmCD | ポリスター | はぐれた背中・関西テレビ「たかじん胸いっぱい」エンディング主題歌 |
| 23rd | 1994年11月26日 | 泣いたら負け/いいがかり | 8cmCD | ポリスター | 毎日放送「たかじん・ナオコのシャベタリーノ」エンディング主題歌 |
| 24th | 1996年3月25日 | もしも夢が叶うならば/思い出よりこの瞬間 | 8cmCD | ポリスター | |
| 25th | 1996年11月25日 | ICHIZU'96/明日になれば'96 | 8cmCD | ポリスター | |
| 26th | 1997年7月9日 | 惚れた弱み/待ってあげて | 8cmCD | ポリスター | |
| 27th | 1998年6月24日 | 想い出にて/まだ夏は終わらない | 8cmCD | ポリスター | |
| 28th | 2003年10月24日 | My memory/最初から今まで | 12cmCD | ポリスター |
カセットシングルについては省略
| シングル |
|---|
|
娼婦和子 キングベルウッド ゆめいらんかね - 君はどこへ - 焼けた道- キングレコード ながばなし - 明日になれば - Walking on - 砂の十字架 - かりそめのパートナー - 横顔 - 愛の時代に ビクター音楽産業 ラヴ・イズ・オーヴァー - あんた - やっぱ好きやねん - ICHIZU - 未練〜STILL〜 - 愛することを学ぶのに - 大阪恋物語 - なめとんか ポリスターTAKAJINレーベル 泣いてもいいか - 東京 - さよならが言えるまで - 優しい女には毒がある - 泣いたら負け - もしも夢が叶うならば - ICHIZU'96 - 惚れた弱み - 想い出にて - My memory |
| オリジナル・アルバム |
| TAKAJIN - 愛しのガール - 明日になれば - プロフィール - CATCH ME - For You〜やっぱ好きやねん〜 - ICHIZU -The Vocal -Mood-夢見る男のために- -egoism-天国はまだ待ってくれる- - JINX - PROCESS |
| ベスト・アルバム |
| Till Now - WEST WIND たかじんスペシャル - 長い物語―たかじん's HISTORY - TAKAJIN DO MY BEST - TAKAJIN SINGLE COLLECTION - YASHIKI TAKAJIN ANTHOLOGY - TAKAJIN THE BEST〜My memory〜 - Ballad for Woman〜女性のためのバラード集〜 |
| ライブ・アルバム |
| わが輩は歌手である〜たかじんソング&トークライブ〜 - YASHIKI TAKAJIN 50 YEARS OLD ANNIVERSARY SPECIAL CONCERT |
| 現在出演中のテレビ番組 |
| たかじん胸いっぱい - たかじんのそこまで言って委員会 |
| 過去に出演していた主なテレビ番組 |
| 新・たかじんが来るぞ - たかじん・ナオコのシャベタリーノ! - たかじんONE MAN - 晴れ時々たかじん - たかじんnoばぁ〜 - たかじんTV非常事態宣言 - ムハハnoたかじん |
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